日々、様々なメディアで種々の情報にアンテナを張って、自分の興味のあるテーマやワークに活かせる材料を探しているのだが、そんな日常の中で、“好奇心”について、シュタイナーが語っていたことを思い出したので書いておきたい。
シュタイナーは、好奇心についてあまりポジティブには語っていなかったような覚えがあるのだが、調べてみて整理してみると、こんな風になった。
好奇心を二つの段階で考えていたように思う。ひとつは、衝動的・感覚的な好奇心と言えるもので、ただ目新しい刺激を求め、浅い知識の消費者としてしまうもの。もう一つは、意志を伴った探究心と言えるもので、世界や他者の本質に近づこうとし、忍耐強い観察と問いを伴う。
なんという違いだろうと今更ながら思う。同じ、“好奇心”と言われても、浪費的な態度と創造的な態度がある、ということだ。新しい情報をただ受け身で消費する心地よさは、私にもあるし、よくわかる。ただ、一方で、表面的な知識から何とか深いものを探り出したい、という気持ちもある。
目にする小さな出来事や情報に対して、「なぜ、それが今言われるのか?」「その人はなぜそのような考えに至ったのか」と問い、その答えを急がず、自分なりに探求し、心の奥に沈める力が必要だと思う。
短くまとめてみると、好奇心は、欲望の延長で世界を消費する態度になればひとを退化させるが、敬虔で忍耐強い問いの力に変容できれば、深い認識へと導く原動力となる、ということだろうか。
日常の事例をいうと、ニュースを見る場面を取り上げれば、「ゴシップやスキャンダルを次々クリックして、しばらくたつと中身は覚えていない」のが前者、「社会問題の背景や歴史を調べ、自分の生活や価値観との関係を考える」のが後者、という具合だ。
「今すぐ知りたい」「刺激が欲しい」という短期的欲望と「全体を広く深く理解したい」という長期的関心、この二つが私の中に常にある。私の好奇心は、これからどのような道をたどるだろうか?