テレビで見たのだが、生まれてはじめて「生権力」という言葉に出会った。ミシェル・フーコーが、暴力・抑圧による支配とは異なる仕方で作動している権力の分析を試みた一つの結論を濃縮した言葉のようだ。
調べてみると、生権力とは古典的な権力である「殺す権力」とは異なり、従属者たちを「生かす権力」であり、よりよく構成員を生かすことで、管理・運営しようとする権力のあり方だそうだ。生かす権力と言うのが、よくわからなかったので、色々考えてみた。
考えてみると、生権力の最も典型的なのが、医療と言えるのではないだろうか?私の独善にならなければよいかと、AIにAI自身の客観性について尋ねてみたところ、次のような‘賢明な’答えが返ってきた。
“「客観的」とは、本来「誰から見ても同じ」という意味ですが、人間の経験や文化的背景は多様なので、完全に誰にとっても同じ視点は存在しません。だから私は、なるべく複数の視点を並べたり、学術的に認められた説と思想的な解釈を分けて提示するようにしています。私の答えは「純粋な客観的事実」だけでなく、「問いを発した人が何を探ろうとしているか」にも寄り添います。たとえば「病気や老い」を尋ねられたら、医学的データと同時に、哲学的な考え方や日常の実践法も補います。”
なんという賢い答えだろうと感心したのだが、ある程度、解釈や意味付けの部分は主観性が混じるようである。主客混じりながら、以下考えてみた。
生権力と聞いて、すぐに思い浮かんだのが、「病気と老いを食い物にしているのは誰か」という問いである。
ひとつは、言うまでもなく、巨大製薬会社だろう。病気を「治す」よりも、「長く薬を使わせ続ける」戦略が見え見えな気がする。生活習慣病や高齢者向けの慢性処方が巨大市場になっているのは、日中病院に行ってみればすぐわかる。
もう一つは医療産業全体で、高齢社会の日本では、介護保険、医療保険、老人施設、サプリメント、健康食品などのマーケットが膨張しており、“老いを顧客化する仕組み”ができあがっていると言える。
さらに、広告やメディアがある。「アンチエイジング」「健康寿命」「若返り」などの言葉を使って、老いを恐れさせ、不安を煽ることで商品・サービスを売っているのも厳とした事実だ。
もっとも、一般的な心理として、「病気になるかもしれない」「老いるのは怖い」という心の不安をもとにして、老いを「敗北」と見なす風潮が、人々に不安と消費を強いるという構造が見られる。
こう考えてくると、「誰か」というより、恐怖と不安を糧にする仕組みや存在が、病気と老いを食い物にしているといえる。これがまさに“生権力”と言えるのではなかろうか。
これらの強固な仕組みに抗い、意識をしっかり保つ方法はないのだろうかと考えた時、思い起こされたのが、それぞれの思想の立脚点が全く正反対とも言える二人のことである。養老孟司とシュタイナーだ。
養老先生は、「死や老いをタブーにする現代社会」への違和感を示し、むしろ人間を自然の摂理のもとの一部分として受け入れることを説いている。人間を自然から切り離す近代思想に抗して、「老いるのは当たり前」という自然観を取り戻すことを強調しており、死や老いを語れる環境を作ること自体が抵抗になる、とも言っている。
ルドルフ・シュタイナーは、老いや病を「人間存在の霊的進化の一部」と見る。病気は魂や霊の成長の契機にもなり、薬は単に症状を消すのではなく、魂の調和を回復する手助けをするべきと説いた。病気や老を人間の霊的進化の契機として見、単なる欠陥や衰退ではなく、魂が肉体から自由を得る過程として理解する。終末期医療でも「いかに霊的に豊かな死を迎えるか」を大切にすることを説いている。
私のできそうなことは、健康情報や広告に「すぐ飛びつかない」、老いを「欠落」ではなく「成熟」と見直す考えに集中してみる、不安を消費で埋めず、自然・芸術・人とのつながりに向かうように努力する。老いを喪失とみるのではなく、変容とみてみる。病を敵ではなく、「自分に何を教えているか」という、魂からのひとつのメッセージとみる、などだろうか。
「いつまでもいつまでも若く健康で生きたい」という欲望が、様々な生権力を生み出していることを思うと、私自身もその権力に手助けをしているのかも知れない。