
この上なく真摯なノンフィクションを読んだ。遺族の方々が語る、亡くなった霊を実感できた不思議な話がつづられている。
奥野氏は、「この世を去った大切なあの人を語るときの、生き遺った人のにごりのない言葉に僕は何度震えたことだろう。」と語り、最後に、中島みゆきの「永久欠番」の歌を添えている。すべての人のかけがえのなさを叫んでいる歌だ。
遺族の方々の体験に対して、わたしは何も語る資格がないが、家族をふたり亡くした経験があるので、少しだけ書く。
それは、この本のタイトルと取材した時期に関係する。「魂でもいいから」という言葉だ。大震災から数年経っていることにも関わる。
自分の経験を思い出してみると、亡くした当時はただ、帰ってきてほしい、という気持ちしかなかった。それを今振り返ってみると、生きて動いている生前の姿のまま戻ってほしい、という「無理な」心情だったと思う。目の前にはっきりと姿を見たい、という願いのようなものだった。
その気持ちは、年月とともに変化してきたように思う。遺影をじっと眺め続けるということが少なくなっていき、「存在そのもの」がいつも近くにいるような気分になってきた。「姿かたち」にこだわらなくなった、とでもいうのだろうか。
「魂でもいいから」というのは、こんなことを言っているのかな、と少しは想像できそうな気がした。
ところで、恩師の高橋巖先生が口癖のようによくおっしゃっていた言葉が、「人間は生きているだけで価値がある」だ。人間の価値は成果や能力ではなく、存在そのものに根源がある、という風に理解してきたが、いまだ腑に落ちていない言葉ではある。
中島みゆきの「永久欠番」を聞いて、一つの問いが立てられた。「自分を永久欠番にしたか?」という問いだ。これは、自分にしかできない役割を生きたか?という問いになる。
この問いを立ててみて、すぐ思ったのが、「生きているだけで価値がある」という考えと矛盾するのでは?ということだ。生きているだけでいいというのに、独創的な仕事はしたのか?と聞かれているようにも思われるからだ。
これをどうとらえたらいいのだろう?
《価値は最初からあるが、役割を生きるかどうかは自由》というように考えればいいのだろうか?
「永久欠番」という言葉を聞くと長嶋茂雄のような「偉業」を想像してしまうが、そういう理解だと、なんだかわけがわからなくなる。
シュタイナーは、「各人は宇宙の中で一度しか現れない音である。」というようなことを言っていたが、これは「自分の音を鳴らしたか」ともとれる。成功や社会的評価とは関係ない、永久欠番の人生とは、どんなものなのだろう?
それは、想像するに、「私だけの物語」のことかもしれない。ふたりの特定の親を持ち、ある性格で、好きなものと嫌いなものがあり、特定の友達ができ、ある会社に入り、一定の仕事をし、ある人が好きになった。そして、クラシックギターを弾きながら、人智学の研究をしている…。この物語は、成功とも評価とも関係がない。確かに私だけのものだ。
わたしは、社会的には大したことは成し遂げていない。だから自分には価値がない、という風に思いがちだったが、「物語」だと思えばいいのだ、という当たり前のことに気がついた。そんなことに気づくのにずいぶん時間がかかった。
ついでに、今思い出したのだが、寺山修司が「僕の職業は寺山修司です」と語っていた。同じことを言っていたと思われる。きっと彼の仕事は、詩を書くことでも脚本を書くことでもなく、寺山修司という魂をこの世界に出現させることだったに違いない。