
名著の絵本を読むテレビで、ヤマザキマリさんが、こんなような趣旨のことを言っていた。
「色の深みを知ることは、語彙を増やすのと同じ。“これは今日飲んだ紅茶の色に似ている”とか“昨日見た枯葉の色に似ている”とか、自分にしかわからない情報を持つ、色の知覚と認識は大切です。」
「語彙を増やすと同じ」という言葉を聞いて、会社の制作部でカタログや新聞広告を作っていたころを思い出した。頭に甦ってきたのは、よく使っていた《日本の伝統色》のDIC見本帳だ。色指定に使っていた。日本の伝統色の名前は千くらいあり、選ぶだけで大変な時間がかかったことを覚えている。
季節でいえば、春だったら撫子色とか萌黄、夏だと浅葱色や縹色、秋になれば鬱金色、茜色、冬は利休茶や胡桃色などだ。主観になるが、“日本的”な色といえば、江戸紫、緋色、薄紅、白練などが浮かぶ。
色彩は魂・身体・意識に働きかける力である、という認識が人智学にはある。ゲーテが色を精神的現象だと言った視点と同じだ。カンディンスキー は『芸術における精神的なもの』の中で「青は魂を無限へ引き上げる」とか「黄は地上へ押し出す」と書いているのも同様だと思う。
色は魂の感情と深く対応している、という見方の一例を見てみると、青は憧れや祈り、赤は意志や情熱、黄は明るい思考、緑は平衡、紫は神秘などといった具体だ。ニュートンは光と色を物理学的に分析したが、それに対しゲーテは、色は魂の現象だと反論した。視点を変えると考え方も変わる、という典型的な例だと思う。「どちらが正しいか」という問いは意味がない。ゴッホやシャガールの絵を光学的に分析しても意味がないのと同じだ。
人智学では、一番重要な色は桃色とされる。生きた人間の色だからだ。この色は人間の生命体と肉体の調和の色とされる。だから健康な肌は桃色になる。桜色も同系統だ。春のはかなさ、新しい生命を感じさせ、日本人の美意識である「もののあわれ」と深く結びついている。
ヤマザキマリさんの言葉で、「自分にしかわからない、色に関する情報を持つ」という観点は、色の理論よりもずっと大切だと思われる。色は体験するもの、ということのように思うが、ふだんの生活の中で色を意識することは少ない。桃は桃色、桜は桜色に決まっている、という風にしか見ていない。
無心に素朴に、ただ美しいと思えば、それでいいように思うが、時には、日々の中で色を意識することもいいかもしれない。紅茶や枯葉だけでなく、いろいろな色は、いたるところに広がっている。今日の空の具合とか、電車の広告とか、コーヒーカップの色とか、なんでもありだ。「今日はどんな気分の色にしようか」で服を選んでもいい。外を歩くときに、季節らしい色を見つけるようにしてもいい。きっと自然を見る目が変わる。
それにしても、街の外観をみると、圧倒的に灰色が多い。灰色はもっとも抽象的な色といわれる。すべてを焼き切った後に残る色だ。緑やカラフルな色彩を人が求めるのも当然のような気がする。