この事件が起きて10年になる。まずは、1年前にこのブログで書いたことを振り返ってみると、こんなことを書いていた。
障害者を憎んだり、その存在を否定したりする人間がなぜ生まれたのか、という問いから始めていて、事件の奥にある本質を考えようとした。そして、「生産性がない命は不要」と考えるのは今の社会自体に内包されているのではないか、「経済価値」や「能力主義」で人間を測る社会の、極端にして暴力的な帰結と言えないだろうか?などと書き、「役に立つか否か」だけで他人や自分を判断する一種の病理を指摘し、犯罪者の糾弾よりも、誰の心にもある「闇」に注目しようとした。
この事件の究明は、様々な視点から行われてきた。犯罪者への面接と分析、関連する社会背景、実存的な観点、深層心理学からのアプローチなど多くのものがあるが、結局は「わからない闇の世界」につながっているような印象を受ける。
この事件を「わかる」ことは、ひょっとすると人類の存在と関係そのものを「わかる」ことなのかもしれない。それは到底答えられないもののように思うが、ひとつだけ、こんな問いを立ててみたらどうだろうかと思った。
「人間は生きているだけで価値がある」 のか?
もし、生きているだけで価値がある、と多くの人が納得できれば、それはほんの少し考えを進められるかもしれない。
普通、人は、働いて他人や社会に貢献できた時、価値があるとされる。仕事ができるとかお金を稼ぐとか才能がある、などもそうだ。これを逆に言えば、病気の人、障害のある人、老いた人、失業した人、何も生み出せない人は比較上、「価値が低い」ということになる。
「生きているだけで価値がある」という考えは、これを根本から逆転する。人間は、何かをするから価値があるのではなく、存在していることそのものが、すでに価値なのだ、という、この見方をどう思うだろうか。
すぐには、納得できないのではなかろうか。極端な言い方をすれば、息をして食べて寝て排泄するだけだとすると、それになんの「価値」があるというのだろう。
ここでいったん理論から離れて、個人的な経験をふりかえることにする。
私の兄は、重度の認知症だ。ヘルパーさんに日常生活のほとんどすべてをやってもらっている。何事にも助けが必要になっている。最近はかなり進み、ただボーっとしている。時々訪ねて行って話しかけるのだが、あまり反応はない。元気だった若いころの兄との関係を思い出すと、胸が締め付けられるような気持になる。
だが、考えてみると、このような日常生活の中に重要なヒントがあるような気がする。
ひとつは、「ヘルパーさんが働いている」ということ。2つ目は、私が「胸が締め付けられる」経験をするということ、だ。
兄という存在が、ヘルパーさんの仕事を生んでいる、という見方を一度深くとらえてみて、逆の言い方をすれば、兄はヘルパーさんに仕事を「与えている」ともいえる。これは、立派な「価値」ではないか!兄の「存在は贈与」だともいえる。
もっと発展的に考えれば、ただ寝ているように見える人は、自分では何も「生産」していないように見えても、その存在によって、介護する人の仕事が生まれ、医療や福祉の専門職が関わり、社会が制度を改善し、介護技術が進化する、など、無数の社会的な活動を引き起こしていく。重度の障害者は「労働を生み出す人」というより、他者の中に「世話をする」「支える」「愛する」「責任を引き受ける」という人間的な力を呼び起こす存在とも言えるのではないだろうか。
二つ目は、「胸が締め付けられる経験」だが、兄が認知症にならなければ、こんな経験はしないで済んだ、と考えてもいいが、「悲痛に耐える練習をさせてもらえた」、とも考えることができる。このような耐久力は、ときに人生には必要だ。兄は、そのレッスンの教師のようなものと思うことはできそうな気がする。そんな風に思えば、兄は「仕事」をしているではないか。
「役に立つから愛される」のではなく、「存在するから、誰かが応答する」という関係。ここに、とても重要な人間関係学があるようにおもえる。さらに深く言えば、寝たきりの人が「何もしていない」というのも、本当は正確ではない。「生きている」という一つの事実によって、周囲の人間に問いを投げかけ続けている。それは、「弱い」人間からの問いだが、元気で強い人間には、決してできない問いのような気がする。















