
おむすびは大好きでよく食べる。最近たまたま、中沢新一氏の「おむすびの思想」というエッセイを読んで心を動かされたので、それに加えて、考えたことを記してみたい。
中沢氏は、神道のムスビの原理を「何かの事物ができあがっても、それを構成している一つ一つの小さな要素は、個体性を失ってしまうことがないようにつくられる。」とし、「ぎゅっと握り固められて、一つの大きな事物にまとめられてしまうのではなく、個物一つ一つの粒立ちが保存されるというのが、日本のむすびの原理の持つ大きな特徴となっている。このむすびの原理を、食べ物に具象化したのが、おむすびにほかならない。」と論じている。
おむすびはいつからあるのか調べてみると、古墳時代の竪穴式住居跡から握り飯と見られる炭化米の塊が弁当箱に収められた形で出土しており、1500年前から食べられていたようだ。奈良時代初期の『常陸国風土記』には、「握飯(にぎりいひ)」という文字が、記録されているそうである。
あらためておむすびとは何なのかをまじめに考えてみた。別名はもちろん、おにぎりだ。
おむすびを見ながら、考えられうる限りのこと、頭に浮かぶすべてを書き出してみよう。
まずは見た目。白い米粒が集まり三角形になっている。俵型のものもある。米の粒つぶはつぶれてはいないでひとつひとつ確認できる。ときどき光って見える。海苔でおおわれており、中には、シャケなど色々な具が入っている。陸の生命と海の生命が、一つの食べ物になっている、という見方もできそうだ。
次に、作られ方。基本的には手で握って作る。もともとはばらばらだったお米が集められ、圧力を受け、まとまり、一つの形になる。いわば、「個」が「一」になったのだが、一粒一粒が消えてしまったわけではない。ここに「むすび」の象徴性が感じられる。
おむすびの中には、何があるのか。もちろん、命の連鎖がある。種から苗、稲から米、そして飯がおむすびとなる。そこに参加していたのは、田んぼであり、太陽、雨、水、土、風、微生物、そして農夫の方々だ。
稲が太陽の光を受け、人間が米を食べる。そのエネルギーを使って人間は歩き、考え、働く。そう考えると、「おむすびの中には太陽が入っている。」という詩的表現もできそうだ。
古代の「ムスビ」は、まずは生み出す霊力として現れたようである。後世になると「ムスビ」と「結び」が接近し、縁を結ぶ、魂を結ぶという意味が広がっていった。おむすびは、米を結ぶ、人の手を結ぶ、自然と人間を結ぶ、食べる人と作る人を結ぶ、という複数の「結び」をシンプルな一つの形にしているように見えてくる。
一粒の米は、一粒のままではおむすびにはならない。しかし、おむすびになったからといって、米粒が「無」に帰したわけでもない。だから、「個を失わずに一つの全体になる。」という象徴として見ることができる。これは、「私は私である。しかし、私は孤立していない」という人間存在のあり方にも重ねられるのではないだろうか。
「精神界ではすべてが溶け合っていながら、個々の自我は保たれる」という人智学の認識のことを、おむすびを食べながら思い出してしまった。
神道的な「むすび」は、違うものを違うまま結び、その間から何かを生じさせる、という原理だと思われる。たかみむすひの神も、かみむすひの神も、ここでの「産霊(むすひ)」は、ものを単純に「作る」というより、生命を発生させ、成長させ、生成させる働きをする。「むすび」は、完成したものを固定する働きではなく、関係の中から新しいものを生じさせる働きといえる。
米はもともと一粒一粒がばらばらだが、それを手で集め、握り、一つの形に結ぶ。握った米粒は完全に同一化してしまうわけではなく、粒としての存在を保ちながら、一つのおむすびになる。多くの粒、個が一つになるが、個であることを失わない。
「個」と「一」の間に、「新しいもの」は見いだせるのだろうか。これは大変難しい問いだ。
おむすびから立ち上ってくる古代の香りをかぎながら、考えていこうと思う。











