ファクトチェックの定義や信頼性が揺れている、とよく聞く。どんなふうに揺れているのかを探ってみた。
探る前にひとつの問いを立ててみた。
「完全に中立・無謬な情報源は存在しないのか、存在するのか?」という問いだ。これに答えるため、という方向で、揺れのことを考えてみたい。
「ファクトチェック」という言葉は一見、単純に「事実確認」と思われがちだが、実際には多くの視点があるように思う。
まず、科学的事実、歴史的事実、社会的事実(世論や統計)など、「事実」という言葉自体が多義的である。「何を事実と呼ぶか」の基準が、分野ごとに異なっているということだ。
ジャーナリズムの世界では、ファクトチェックは「公開された情報を複数の一次資料と照合し、正誤を判定する」ことを指すのが一般的とされている。一次資料とは、公式文書・統計・専門家証言のことだ。「ファクトチェック」と称しながら、実際には「言説の一部を切り取り、自分たちの価値観に照らして『誤り』とラベルを貼る」場合もある。すでに、「検証」なのか「評価」なのかが不明瞭となっている。公式文書・統計・専門家証言それ自体が、十分信頼できるのか、という点も残る。
また、「正しい/間違い」という二分法をとると、「社会的に望ましい/望ましくない」という価値判断が入りこみ、ファクトチェックは客観的検証ではなく「正統性の主張」の道具になってしまう可能性がある。
人智学の観点では、ジャーナリズムとはかなり違う見解を持つ。
それは、単なる論理的な正誤判定や経験主義的な「目に見える事実」にとどまらない。人が目にするものは「現象」であり、それをどう解釈し、背後にあるどんな霊的な力と結びつけるかによって、初めて「真の事実」となる、という見方をする。
例えば植物の葉の形は観察できる「現象」だが、それをただ並べるのではなく、葉が「全体の植物存在の変形」であると洞察するときはじめて、現象を超えて「事実」が把握できる、とする。
肝心な点は、真偽を判断する能力は外部から与えられるのではなく、自らの「純粋思考」を通して培われる、ということだ。思考が欲望や感情に曇らされていれば、どんな事実も歪めてしまう。逆に、欲望から自由な思考に至れば、事実そのものが思考の中で自己を明らかにし、真偽を判定できる。
現場に行って自ら確認し、自分の頭で考えているようでも、好奇心が残っていれば、バイアスのかかった思考が生まれてしまう。
真偽の判断には「内的訓練」で得られるバランス感覚(冷静さ・勇気・思考の集中)が必須で、それがないと幻影や妄想を事実と思い込む危険がある、としている。つまり、ファクトチェックは必要であると同時に、「チェックする側の思考の質」が問われていると思われる。
ジャーナリズム的チェックは「公共圏における秩序維持」に必要であり、人智学的判断は「人間の内面における真理発見」に必要と言えそうだ。