『千の風になって』のような歌を人智学風に表現した詩を書こうと思って奮闘したのだが、私には詩作の才能がないことが分かった。
散文の箇条書きで死者の言葉を並べることはできそうなので、それを試みる。死んだ直後から、死者が体験するおおよその順番で、独白調にしてみた。幻想的な物語とでも思っていただければいい。
初七日の今日、自分が死んだことがやっとわかった。
私は今、生前の人生を逆に描いてある巨大な絵巻物を眺めている。
その絵はまるで、他人の人生のようだ。
老年から中年、青年へ、そして幼年へと巻物は続く。
「この人」には本当に色々なことがあったんだな、という気持ちだ。
お腹がモーレツに空いてきたのだが、体がないのでどうしようもない。
タバコが吸いたいのだが、それもだめだ。
どこにもお酒は見当たらない。
この渇きの苦しさはいつまで続くのだろうか。
向こうに、なんだか暖かそうな光がうっすらと見える。
これは、いったい何なのだろう?
もやもやした煙のようなものも漂っている。
しばらくして、その光と煙の出どころがわかった。
そのなかに、私の娘の思考と感情が感じられたからだ。
それは、地上で使っていた言葉では、表現できづらくなっている。
でも、私の魂に直接響いてくる。
やっとわかった。
娘は、仏壇でお線香をあげているのだ。
私のことを思い出してくれているのが、ありありとわかる。
もう、地上では一年が経っているらしい。
だが私には数時間にしか感じられない。
「そんなに悲しまないでくれ!」という想念を送ってみた。
だが、反応はない。
強い悲嘆の波長を受けると、私もとても苦しくなる。
あなたがいないと生きられない、帰ってきて、という思いを受けると
私も地上に帰りたくなるからだ。
地上の人の思考や感情は、光として見える。
愛や真理、精神的な思考はとくに輝いて見える。
芸術や祈りからくる波動もつよく感じる。
地上の世界を物質的に見ることは、もうできない。
地上世界は、思考の海のように見える。
思いや願いや回想は、本当に力としてこちらにやってくる。
生前に心眼でものを見る訓練をしていたのが役立つ。
また地上から何かがやってきた。
呪文のような、わけのわからない、言葉のような…。
このような機械的な感じのメッセージは、ほとんど感知できない。
だが、かすかな想念をキャッチできた。
菩提寺の和尚さんが、お経をあげているらしい。
もう、三回忌のようだ。
それとはまったく別のエネルギーを感じた。
まるで滋養のある食べ物のようだ。
娘の想念を感じる。
今度は、私のために何かを読んでいるらしい。
思考を読んでみると、哲学書か宗教書のようだ。
詩かもしれない。
私は本を読むことはできないが、
本を読んでいる娘の思考は読める。
精神的な内容の思考ほど、私を励ますものはない。
特に明晰な思考は非常に明るい光になって届く。
一方、怒りは赤黒い雲のように、嫉妬心は濁った緑色にみえる。
深い悲しみは重い灰色だ。
最近、地上からはこのような波動がやってくることが多い。
わたしはいつも、これらの雲から逃げ回っている。
私の体を言葉で例えれば、光だ。
地上に降り注ぐ光の中にいつもいる。
昇る朝日の中に、昼の強い日差しの中に、沈む夕日のなかに。
また、地上で善いことを思う人がいると、わたしは近づく。
祈る人がいると、わたしはその中に入っていく。
何か、誰かを愛そうとする人のそばに、いつも私は立つ。
とても多くの人の想念が感じられた。
こんなことは初めてだ。
地上では何が行われているのだろう?
多くの想念を読んでみた。
私のお墓の前におおぜいいるようだ。
みんな私のことを偲んでくれているのが、よくわかる。
今日だけは、お墓の中からみんなの心を眺めていよう。
私が旅立ってからもう15年たつのだ。