人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

「わからない」ことの意義について

小説の『ソラリス』をマンガにした、もりいずみ・たけひとさんが、新聞の文化欄に寄稿されていたので、その感想を書く。

その文は、「現代は、誰もがみな“わかります”と共感したり、されたがっているように見える。」という提起から始まり、まるで分らないことだらけの惑星ソラリスのことを、「人類の理解を超えた圧倒的な他者」と述べている。

結果的に、「共感の外へ手を伸ばして他者への理解を求めようと試み続ける」こと」を考え、マンガにしたそうだ。

これを読んで、とても深いものを感じ、こんなことを考えてしまった。
“人は、どんな事柄でも、他人に対しても、「わかりたい」と思う気持ちがあるが、逆に「わからない」ままにしておくことの意義はないのだろうか?”と。

人について思いつく意義を考えてみた。

〇「わかりきれないものがある」と自覚することは、むしろ相手への敬意や謙虚さにつながるのではないか、ということ。他者を“理解しきれない何かを持つ存在”とみれば、そのことによって自分の狭量さも自覚でき、自己を広げるきっかけになるかもしれない。

〇人は日々変化する存在なので、「わかった!」という自分勝手な視点を貼り付けることで、相手の可能性や複雑さを見落としてしまうことがある。

「わかりたい、でもすべてはわからない、それでも、あなたとここにいる、またあした、あなたと会うことで、わたしは、ほんの少し進める」という感じがいいのではないでしょうか?

人智学の高橋巖先生が生前よくおっしゃっていたのは、「簡単にわかってしまうと、縁が切れてしまう」という言葉だ。わからないから、また会う、読む、話す、などの行為が続けられる。難解な本なども、著者が言いたいことが“わかった”と思ってしまうと、当分はその本を読まなくなる。何年もたって、同じ本を読み返してみると、全然違う感想を持つことが多いが、変化したのは私のほうだ。どう変化したかは、何に注目し、どう読んだかと同じだ。私は、進んだのか、退化したのかは、“わからない”。