クローズアップ現代というテレビ番組で、「ヤバい・エグいは危険? 注目される感情リテラシー」というタイトルにひかれ、考えさせられたことを書く。
まず、今問題になっている闇バイトにかかわる若者たちの取材から始まった。リクルータと言われる役割の者は、「親身になって相談にのってあげると面白いくらい(出し子=お金などを取りに行く者)の者がホイホイついてくる」と言っていた。自分の気持ちを言語化できない子が多いそうだ。
もう一つの取材先は少年刑務所で、そこの刑務官は「感情を出さない。以前は、暴力・反抗であれ自分の意思表示ができたが、今は感情・表情がなく、正直言ってわからない」とこぼしていた。アンケートでは、“自分の気持ちがわからない”と答えた人が35.6%いたという。よくヒアリングしてみると、“まわりに信用をおける人がいない”、“他人の顔色をうかがってずっと生活してきた”という声も聞かれた。
それらの対策として、専門家が登場し、怒りを表現する言葉を程度別などで100個並べたマップを見せ、「言葉を最大限引き出す」ことの必要性をうったえ、また、原因として、「大人が感情リテラシーを教えることが弱まっている。親が子供の情動に感染してしまい、コントロールを教えるまでに至らない。自分の感情を聞いてもらえる相手が少ない。」などと分析していた。
ここまで見て、自分の感情を言葉にできない人が増えている根本は何なのか?と考えてしまった。専門家の分析や対策が、どうも表面的に聞こえたからだ。
私の考えでは、やはり小学校時代の教育に行き着く。中学校になると、比較的にいって、抽象的・知的な語彙の学習になるので、感情を養うにはある意味で遅すぎる。語彙力以前の問題として、感情教育の不足が原因のように思う。そこで “学校教育では知識や技能の習得が重視されがちで、感情を言語化する訓練はあまり行われていない。そのため、子どもが成長しても「自分の気持ちをどう表現すればいいか分からない」ままの人が多い。” という仮説を立ててみた。
実際の授業を調べてみると、感情認識や表現、共感、問題解決などを体系的に学ぶ方法論は何種類もあり、それに加えてアンガーマネジメント教育や絵本や物語を使った感情理解、感情語彙の習得とラベリング、自分の感情を日記や感情ジャーナルに書き出すなどなど、目がくらんでくるようなたくさんの訓練法があることがわかった。
それらを実践しているのになぜ?と疑問はさらに広がる。もしかしたら、立てた仮説のように、それらにあまり時間がさけず、ほかの教科の知識を入れ込むのに精いっぱいなのではないかと。
感情の言語化に関する授業時間(複数科目)を調べてみると、低学年で全科目中の約40〜60%、中学年ではおよそ35〜45%程度、高学年では約12〜15%程度が「感情の理解や表現」と関連する時間と推定される。思ったよりもはるかに多い時間だ。こんなに‘勉強’しているのに、なぜ?と思ってしまう。
闇バイトに走ってしまった子たちは、勉強していなかった、と言ってしまえば、ことは単純だが、はたしてそれだけだろうか?
言語の感情化に多くかかわる国語と道徳の教科書を見てみると、どの単元を見ても、何々しましょう!とか、何々すべき!といった調子が目に付く。例えば、感情語彙の習得とラベリングをするにしても、何か強制的な感じがする。実際の教室の雰囲気を体験したわけではないが、感情教育なのに、説教的、知的な感じがする。“上から教える”悟性教育のようには感情は育たないように思う。これで本当に感情の能動性が出てくるのだろうか?と心配になってしまった。
批評家の小林秀雄が、「言葉に感情がこもらないということは恐ろしいことです」と書いた『表現について』というエッセイを思い出したが、芸術家の表現行為は自分の意識や感情を深く自覚し、それを言葉や形にする作業であると説いている。教師は、知識・ノウハウの教授者ではなく、芸術家であるべきだと思う。