人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

おみくじは、人間にとって吉か凶か?

御神籤

お正月に寺や神社でおみくじを引くのは、どなたも経験があるだろう。私もよく引き、吉がでるとうれしくなり、凶がでるといやな気持になる。ひと時立てば、忘れてしまうのだが。

半年前に「人間の意識が曇らされるのは、どんなときか?」という題で文を書いたが、そこで自分の経験の一つとして、「種々の占いで、吉とか凶とか出た時」と書いていた。意識が曇るのは、「物事や人の言動の本質を真に見る力が弱まり、判断や感覚が歪められる状態に陥ってしまうことを言っている」とも書いていたが、そのことについて再度考えてみたい。

問いは、「おみくじなどの占いに人がひきつけられるのはなぜか?」というものだ。

その答えは、「自分の未来を知りたいという欲望があるから」ではないような気がする。単に将来を知って、どうするというのだろうか?吉と出れば調子に乗って進み、凶と出れば失望して何もやる気にならないのだろうか?

お寺や神社に行って「楽しみにしている」かもしれないおみくじを否定するつもりはさらさらないが、「人の自由意志を最も大切にしたい」という考えから、おみくじの功罪をしっかりとみておきたい。

私の観点の出所は人智学になるので、その前提で書かせていただく。それは、「人間は生まれる前に霊的世界で自分のこれからの人生の大きなテーマを見ているが、地上に生まれるときに、その記憶を意図的に忘れる」という見方だ。

こんな視点は誰も信じないだろうが、とりあえず進めさせていただく。

これからの人生のテーマを忘れてしまっているため、人間の内側には、常に次のような感覚がある。「本当は、何か大事なことを知っていた気がする」というものだ。占いへ引きつけられるのは、失われた“人生の地図”の断片をもう一度覗き見たい衝動の表れだと考えられる。

人智学的に言えば、おみくじは未来を決定するものではなく、「引いた瞬間に、どの霊的流れに接続しているか」を映す鏡といえる。おみくじは、今の魂の姿勢が言葉として現れたものだ。姿勢とは、これからどう生きようかというベクトルを指す。このベクトルの中に、忘れていたテーマが潜んでいる。おみくじは、引いた人の持っていたテーマを正しく掘り起こしてくれる。そこが、不思議なところだ。

おみくじの言葉は、命令形で書かれることはない。つねに象徴として語りかけるため、抵抗が少ないという特徴がある。あくまで参考資料だ。

人智学は占いを全面否定はしていないが、明確な警告がある。占いを「決定権」として使ったり、不安を解消するために何度も引き直したりする行為だ。判断を委ねてしまうことも危険になる。

健全な扱いは、占いを「問い返しのきっかけ」として受け取ることにある。具体行動は自分で引き受けなければならない。占いは自我を目覚めさせる鏡なのだから。そのとき、すでに知っているはずの「人生の方向」を思い出せるに違いない。

「決める主体である自分」から一度退避したい、という気持ちはよくおきることだ。気にすることはない。どうしてもわからなくなった時こそ、おみくじを引いてみたらいい。だが、決断するのは、おみくじでも神様でも仏様でもなく、引いた本人だけができる、というところは避けられない。

アルゴリズムが行う種々の「おすすめ」、性格診断、タイプ分け、データに基づくキャリア設計、健康年齢アプリ、AIによる最適解、トレンド指標、教育評価システム。これらをみると、占いが流行る社会ではなく、社会そのものが占いになっていることがわかる。おみくじと同じく危険性をはらんでいる。

ここで新たに問いができそうだ。

機械的なものが予測した未来を生きるのか、自己が引き受けた未来を生きるのか?

未来は常に、予測不能な教師といえる。