
お正月の間中、ゆっくり過ごしたつもりでいて、その実、心のどこかで、「今年はちゃんとしなければ、とか、今年こそは何かをしっかりと」などと、自分を締めていたことに気づく。鏡開きは、言わば正月明け。お汁粉の甘みと小豆に関して思いつくことは、
おしるこは、甘く、温かい。
餅は、柔らかいが、嚙める。
小豆は赤く、皮が硬い。
汁は、飲める。
高齢者と子供は、特におしるこが好き。
小豆洗いという妖怪がいる。
“甘さ”とは何だろうか?赤ちゃんが最初に経験する味とでもいったらいいのか、甘味は、「生きていい、受け入れられている、努力しなくても与えられる」、という感覚を、自然に体に与えてくれる。まるで、甘みという存在がすべてを無条件に「よい」と言っているようだ。甘味とは、人が世界に生まれてきたこと自体を肯定する感覚である、と言えそうだ。甘味が失われると、人は「柔らかさ」を保てない。甘味は、倫理や宗教より偉大かもしれない。
餅は、噛まなければならないし、飲み込むには注意が要り、時間がかかる。つまり、甘味を「即座に摂取」させない食べ物になっている。日本の食文化には、「甘味はいいが急いで取ってはいけない、自分の体のリズムに戻ってから受け取れ」というメッセージがある。それが、おしるこの餅だ。
小豆は古来、邪気を払い、罪穢れを引き受ける、とされてきた。ハレとケの境目に置かれる植物だ。小豆は主食にならないし、おかずにもならない。小豆は、出しゃばらない存在だ。餅、米、甘味をしっかり生かすためにある。小豆の赤と硬い皮が象徴するのは、「血・生・死・厄・境目」だ。だから、赤飯、お汁粉、祝い膳、厄払いに必ず使われる。生と死の両方に属する色である赤は、境界そのものの色といえる。あずきは、境界を可視化するための植物なのだ。
「汁」も、日本文化においては、生命の循環や境界の溶解、生と死のあわいを象徴する。お汁粉は、甘味を生と死のあわいに静かに置く食べ物なのだ。
子どもは、まだ世界に定着していない。あの世から来たばかりなのだから。高齢者は、世界から離れつつあり、あの世に近づいている。どちらも、地上の現実への接着力が弱い。だから彼らは、論理でも道徳でもなく、甘味によって「ここにいていい」と確認する必要があるのではなかろうか?おしるこは、「栄養」ではなく、‘ここ’または‘あそこ’へ帰還するための準備装置と言ったら言い過ぎだろうか?
小豆洗いは「怖がらせる妖怪」ではなく、人の心と行為を“止め、ずらし、戻す”ための働きをもつ存在といわれる。小豆洗いは、夕暮れに川辺や谷や橋の下などで、「小豆とごうか、人とって食おか」などと歌う。小豆洗いはここで人に問いを投げる。「行くのか、戻るのか。今は渡る時かひとりで進んでよいのか」と。小豆洗いは神でもなく人間でもない。境域を守っている存在だ。
小豆洗いは、甘味(小豆)をまだ食べさせない。洗っているだけで、「今はまだだ」と告げる存在だが、人間側の儀礼である鏡開きによって「今ならいい」と境界が解かれることになる。鏡開き以後、小豆は煮られ、甘味として身体に入る。妖怪が管理していた甘味を、人間が儀礼を通して受け取る、というしくみだ。
なんだか無理矢理に鏡開きと妖怪を結びつけてしまったが、鏡開きが形骸化し、甘味はいつでも食べられ、境界も消えた現代では、小豆洗いも、お汁粉も“効かなくなった”が、せめて一年に一回くらい、「節目」を意識していきたい。