矢沢永吉がソロデビュー50周年を迎え、東京ドームでの公演で言った言葉だ。この言葉は、私にも深く突き刺さる。永ちゃんよりかなり年下なのだが。
まさに、あっという間に人生が過ぎ去った感が強い。数十年という歳月は、物理的に、また客観的に見ればけっして「あっという間」ではないのだが、なぜ、そんな感じをもつのだろう?
私の恩師がかつて、「それは欲望の深い人ほど感じるものだよ」とおっしゃっていたのを思い出すが、私の場合、確かにそのように思う。
人智学的に、魂の変遷を思う時、どのように解釈できるだろうか?
幼い子供は、時間が過ぎるのを早いとは思わないようだ。まだ、この世に来たばかりなので、天で過ごしていたころの‘永遠的な’時間感覚をまだよく保っていると考えられる。地上の出来事を体験する際にも、その永遠感覚のままで生きている。子供たちは、「早く過ぎ去る」という地上的な感覚をまだ「学習」していないのだ、ともいえる。
魂がその永遠性の視点から比べて世界を見ると、数十年は「短い」。それに何と言っても、地上は様々な物質的欲望を満たすことがらでいっぱいだ。大人になれば、その世界にまみれて生きていく。衣食住やお金だ。権力欲とか支配欲などの精神的な欲もある。その他心地よいことすべてだ。自分を振り返ってみても、それらひとつひとつを求め、味わい尽くそうとした。そうすれば当然、「時間」は、あっという間に過ぎていく。ただ、それらの欲望は、魂の進化のためのひとつの手段なので、けっして「いけない」ことではない。進化には「抵抗」が不可欠なのだ。
しかし、ある時、「これらを求め続けてきたことは一体何だったのだろう?」という思いが噴き出てくる。欲をみたす生き方に限りを感じ出すからだ。
老年が近づいてくると、本来の時間感覚を思い出すようになるようだ。そうすると、地上時間の‘密度’に戸惑うようになる。密度とは「出来事」「情報」「仕事」「活動」など地上的なことすべてが、次から次へと休みなくやってきて、それに適応し対応し処理するさまを指す。
「本来の時間感覚を思い出す」といえる前提は、経験を重ねた魂は、ある程度「成熟」してきているということだ。そのとき、成熟した魂は徐々に、人生をまとめて一望できるようになる。少しずつだが、人生全体を大きな物語として見ることができるようになる。「まとめて、大きく」ということをずっと広げていくと、最後は「永遠」までたどり着くだろう。そう考えると、時間は可塑的なものだとつくづく思う。“機械的に一定に一方向に”流れるものではなく、止めることさえできる。
「魂は本来どこで時間を生きているか?」という問いを立ててみよう。
‘どこで’という問い方をすると、何に縛られているのか?のような印象も出てくる。いつも今のことに夢中になっていたり、あるいは、過去の失敗や後悔や誤解や傷つけられた経験にこだわっていたりする。それは、「処理されなかった過去」といってもいい。過去を十分咀嚼しないまま通り過ぎると、「あっという間」と感じるのではなかろうか。
「あれは、私の何を育てたか」、を問うてみると、出来事に使われる人生から出来事を使って成長する人生に変わる。その問いは、人生をまとめ始めたサインといえる。それを噛みしめる時間は、あっという間ではない。
「天界では、時間は未来から過去に向かって並んでいる。」とも言われる。また、「過去と現在と未来は、同時的に存在する。」とも。“並んでいる”という表現は、地上では使わない。天界では、「時間が空間になる」からだ。時間感覚は、近い風景や遠い風景のようなあり方になる。地上で昔のことを思うと、それは遠い風景に見えるのと似ている。風景はやはり、ゆっくり眺めたい。
こんなことを書いていたら、またしても、あっという間に時間がたってしまった。何事もよく噛みしめるようにしたい。