人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

七草粥は、食事ではない?!

七草がゆ

三が日の間、いいお酒とおせちとお雑煮をたっぷり堪能させてもらったせいか、おなかもかなりたっぷりになってきている。体が自然と、あっさりしたものを欲しがっている。

今日は七草だ。七草粥は邪気を払うと昔から言われているが、その邪気とは何だろうか?

まさか、何か具体的な悪霊のようなものではないとは思う。おそらく、この出てきたおなかに関係がありそうだ。

調べるところによると、古い日本語の「邪」は、正からわずかにずれた状態、曲がり・偏り・過不足を意味しているそうだ。邪気とは自然の体の流れや魂のリズムから外れた“滞り”のようなものかもしれない。まさに、この出っ張ったおなかは、滞りを目に見えるものにしてくれている。

正月の食生活をかえりみて思うのは、その結果、身体は重く、感覚は鈍り、意志はゆるみ、魂がなんだか宙に浮いてきたような感がある。正月は“人間が一度ゆるむ儀礼”だから、まあいいとしようかとは思うが、ゆるんだまま日常に戻ろうとすると、生じるのが邪気だそうだ。

七草粥が対象にしている邪気とはきっと、胃腸に残った濁りや体内に停滞した余分な熱、気の流れの淀み、祝祭の高揚が冷めきらずに残る魂のざわつき、などだろう。

七草はすべて、強い栄養ではなく「目覚まし」のような性質を持つと聞いた。とすると、これは養うための食事ではなく、“流れを戻すための行事”と言うほうがいいのかもしれない。

粥は、噛まずに抵抗なく流れ込むことで、意志を鎮め、感覚を静め、身体の中心に戻す食事形態といえる。これを食するということは、まだ形にならない春の生命を、最も早く最も弱い形で体内に迎え入れる行為といえる。七草粥は、“食べる祈りであり、音のない祓い”と言ってもいいような気がした。

七草は、栄養価は高くなく、さほど美味しくもなく、豪華でもない。むしろ、苦く、淡く、まだ何者でもないといった印象がある。いまは、一年中野菜があり、季節感が体に届かないし、正月が「休暇」になってしまっている。そのため、この「微弱な生命を迎え入れる感覚」が失われているのではないだろうか?

七草の霊的な側面を一言ずつ、書いておこう。根拠はそれぞれの草に聞いてもらいたい。

せり    正月で滞った血の流れ・人間関係再び循環させる草。
なずな    抱負が空転しないよう、立つ場所を思い出せと教える草。
ごぎょう  語りすぎを鎮め、必要な言葉だけを芽吹かせる草。
はこべら  体と外界、心と他者の裂け目を縫い直す草。
ほとけのざ 目立たない場所に霊性が宿ることを思い出させる草。
すずな   空回りする計画や理念を、食べられる現実へ変える草。
すずしろ  複雑な感情や未消化の事を、抜きとる力を与える草。