「万引きで6度目の服役」という新聞記事が目に留まった。“もう絶対に繰り返さない”そう心に誓っても、長続きはしなかった、とある。福島刑務支所の話だ。
万引きへの依存症は、治療しなければ再犯は防げないと指摘する専門家もいるそうだ。
服役中の本人は、「頭ではわかっているのに、体が動いてしまう」。そうした自分を「大事な場面で都合のいいように思考する癖がついている」と見つめている。その癖を直したいが、誰に助けを求めればいいのか思いつかない、と言っている。
新聞では、社会復帰を支える仕組みが必要だ、で終わっている。本人の自己認識に比べ、なんと浅薄な結論だろう。
人智学の、万引きについて直接の言明は見当たらないが、「万引き」という行為を単なる法的・道徳的問題としてではなく、人間の霊的発達や魂の不均衡のあらわれとして捉えるはずだ。
万引きをするという行為は、衝動や欲望が自我によって十分に統御されていない状態と思われる。「欲しい」「奪いたい」という本能的感情が、霊的自己の光によって照らされず、無意識的に行動に出てしまうのだと思う。
万引きに限らないが、人智学では、犯罪や逸脱を「絶対的な悪」とは見ない。それらはむしろ魂がまだ統合されていない部分の表現であり、将来の成長にとっての「課題」とみなす。悪は、まだ善へと転化されていない未熟な力とみる。
万引きする人も、魂のどこかで「欠乏感」や「孤立感」に苦しみ、自我の温もりを取り戻そうとしていると言える。その欠乏が「物を手に入れる」形でしか表現できない状態をさしている。
万引きという行為も、単なる「罰すべき犯罪」ではなく、その人の魂が今生で学ぼうとしているテーマのひとつとして現れる。たとえば「所有」「信頼」「他者との関係」などだ。法律ですべてが裁けると思っている人には、思いもよらないことだろうが。
もしかすると前世で「与えること」「分かち合うこと」を拒んだ体験がある人なのかもしれない。あるいは今生で「欠乏」や「疎外」を通じて「本当の充足とは何か」を学ぼうとしている人なのかもしれない。
人智学者は万引きする人を非難するよりも、理解と同情をもって見る。しかし同時に、その行為を正当化はしない。それは魂をさらに縛るからだ。むしろ「どうしたらその人が“自分の内側の豊かさ”に気づき、物質に頼らずに満たされるか」ということを、全力を出して助言をすると思う。
万引きをしたあと、人は多くの場合、恥・恐れ・罪悪感を感じる。これは単なる心理的苦痛ではなく、感情の動きに対して「自我」が初めて目を覚ます瞬間といえる。
恥や罪悪感は、魂の奥で「光があたっている印」だ。魂の中の暗い部分がようやく見えるようになった、ということを意味する。ここで逃げずに自分の行為を見つめることが、癒しの出発点になると思われる。
多くの場合、万引きした人の根には次のような体験があると思われる。
誰にも本当の自分を見てもらえないという孤独。
「与えられない」「足りない」という無価値感。
愛のやりとりが途絶えてしまったという感覚。
物を「奪う」ことで一瞬、存在の欠けを埋めようとするのだが、本当の充足は、「愛を受け取る」か「愛を与える」ことによってしか得られない。万引きをした人が、もし他者に何かを与える喜びを経験できたなら、それは内的な転換点になりえる。「奪う衝動」は「与える喜び」へと反転するはずだ。
ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』、ジャン・ヴァルジャンを思い出してしまった。妹の子どもたちを飢えから救うためにパンを盗む。それは法的には罪だが、魂的には「愛の欠乏」への衝動的反応だ。「盗み」という闇は、愛の渇きという光の影であるといえる。
銀の燭台を差し出した司教は、ジャン・ヴァルジャンの中に「まだ光を知らない神性」がしっかりとあることを見抜く。司教様は、「私はあなたの魂を、黒い暗闇から神に買い戻した」という、信じられないほどの愛溢れる言葉を発する。
この後のジャン・ヴァルジャンは、長い時間をかけて「罪の意識」と向き合う。それは彼を苦しめるものではなく、自己を変容させる火となる。彼がマドレーヌ市長として生きる頃には、「他者のために働く喜び」つまり、「与えることの力」が彼の中心動機になっている。
人智学的に見ると、ジャン・ヴァルジャンの人生は人類全体の霊的進化の縮図のように見える。すべての人間は、どこかで「奪い」、そして「与える」存在へと変わっていく。ジャン・ヴァルジャンは、「人間とは何か」という問いそのものの化身なのだ。
今、福島刑務支所から出所までの日を指折り数えている受刑者の方のために、なんでもしたくなる。