
正月には、近くの七福神巡りをよくするのだが、あまり深く考えたことのない問いが浮かんだ。なぜ、正月なのか、というものだ。
七福神は、富、寿命、魅力・享楽、破壊と再生、無垢・笑いという、人が一年を生きるために必要な“生の要素”のようなものだ。「善行の報酬」や「努力の結果」ではない。ちなみに、大黒と恵比寿は富を、寿老人と福禄寿は、寿命を担当する。
七福神巡りは参拝というより、町を歩き、順番に巡り、身体を使って空間をなぞるという身体的行為だ。これは、新しい一年の「運の回路」を自分の身体でなぞって接続し直す行為とみることもできる。だから時間が始まる正月でないと意味が通らない。七福神は「ご利益キャラクター」とはちょっと違うような気がする。
七福神は、民間信仰の寄せ集めのように説明されがちだが、人智学的な視点で読むと、人間を構成する七つの諸力が、日本的に“可視化”された像とうつる。
人智学では、人間は大きく次の層をもつとされている。
1 物質体
2 エーテル体 (生命力のこと)
3 アストラル体 (感情や欲求のこと)
4 自我 (私は私だということ)
5 霊我 (変容された感情)
6 生命霊 (変容された生命力)
7 霊人 (完成された人間自我)
七福神は、これを抽象理論にせず人格神として、ちまたに出したものだ、と考えると、とてもよく符合している。西洋で生まれた人智学と日本古来の神意識がこんなに似ているとは、まったく驚きだ。
一神ずつ、その特徴を見てみよう。
恵比寿は、言ってみれば、「物質体プラス労働する自我」のようだ。 漁・商・市に結びつき、地上に立ち、働く身体そのものといえる。霊性を持ちつつ、地上に降りきった存在だ。
大黒天は、エーテル体(生命・繁栄)の象徴だ。五穀・台所・財を受け持ち、打ち出の小槌は、さながら生命力の増幅装置だ。足元にある米俵は、蓄えられた生命力とみられる。未来を養う存在といえる。
毘沙門天は、意志と闘争を担うアストラル体の象徴だ。武神であり、鎧・槍がそれを特徴づけている。怒り・勇気・決断を引き受ける存在でもある。人間の“攻撃性を霊的に引き受ける像”といえ、これが目に見えて外在化されているから、人は内的に荒れにくい、という仕組みになっている。
弁財天は、浄化された感情(アストラル体)を表す。音楽・言葉・水・芸術などの分野を受け持つ。欲望と感情を「流れ」に変える役割を持つとされる。感情を芸術へと昇華してくれる存在だ。
福禄寿は、生命霊に対応する。長寿・徳・知恵を担当する。異様に長い頭は、時間を超えた意識を表現しており、神というより「流れ」そのものであり、個人を越えて働く叡智を象徴する。
寿老人は、完成された人間自我(霊人)を表す。静けさ、白鹿・巻物、仙人のような姿が特徴だ。地上性から解放された人間の最終像といえる。見ていると、「死を知り尽くし、それを超えた穏やかさ」を感じる。
布袋は、自我が本当に自由になり、それが「遊び」的なものに見える。目には、笑いや大きなお腹として映る。もちろん何者にも執着しない。自我が硬化せず、再び子どもに戻った姿といえるだろうか。
七福神には教義がなく、救済の強制もない。改宗を迫るわけでもない。これは人智学で言う「自由な自我の成熟を妨げない霊的配置」そのものだ。
七福神は「正月が終わると帰る」。それでいいのだ。宗教化したら「依存」が起きるし、常設化したら「権威」的になってしまう。イベント化したら、「消費」社会そのものになり、本来の“自由を守る機能”が失われる。
“短期・非日常・非教義・必ず終わる”という条件を満たすものだけが、人の自由な自我にとって「安全」といえる。七福神が「正月にしか来ない」理由を、忘れてはいけないと思う。