人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

大人には、いつなれる?

成人式に関するアンケートを色々見てみて、どのような意識を持っているか、おおよその事がわかった。

重視する事柄は、振袖を着ることと写真を撮ることが上位。嬉しいことは、お酒が飲めることが1位。「日本の政治に期待できる」「未来は明るい」といった社会意識の肯定的回答が増加。大人になったと感じるきっかけは「給料をもらう」「責任の重さ」「大きな買い物」など。

一方、「精神的自立ができていない」と答える人が半数ちかくいる。Z世代にフォーカスしたアンケートでは、「自立・責任・人を支える・自分らしさ」など、従来の外的な事(服装・儀式)だけでなく、内面の価値観・人間関係・他者への配慮まで含んだ大人像が語られており、精神面での成熟志向が強くなっているという。博報堂の「100年生活者調査(新成人編)」では、新成人の約81.7%が「20代以降に大人になったと自覚する」と答えている。

まとめると、「体験や責任を通じて大人になっていく実感を得たい」人が多く、「人生を長期的に考える“生涯探求者”としての価値観が強まっている」という、非の打ちどころのない結果が見えてきたが、実態はどうなのだろうか?という疑問も残る。

西洋には成人式というものはないが、キリスト教圏ではその代わり、“堅信礼”というものがある。成人式も堅信礼も、どちらも「子どもから大人への通過儀礼」だが、魂に何が起こると理解しているか、社会が何を期待しているかに、決定的な違いがある。そもそも比較すべきものではないとは思うが、並べてみることにする。

成人式には、祝福はあるが誓約はなく、神や超越者への応答を要求せず、形式は華やかだが、精神的変容を必須としない、という特徴がある。自我が社会空間に“登録される”儀礼であり、個人の内面的な成熟よりも、「役割を担える存在になった」という外的承認が中心だ。成人イコール完成ではなく、始まりであり、「一人前」より「これから修行」といったイメージが強い。

堅信礼は、霊的・倫理的主体としての自己宣言で、洗礼で与えられた信仰を本人が意志的に引き受け直す儀礼だ。「私は、自由意志で神と向き合う存在となる」という宣言でもある。霊学的に言えば、自我が霊的世界に対して“自立する”儀礼といえる。これは、キリスト教的な人間観を反映したもので、その特徴は、「成人とは責任能力の完成であり、善悪判断を自ら引き受ける存在となる。また、神の前での孤独な主体の誕生」といえる。なんだか、日本と比べて厳しいイメージがある。

日本社会には「霊的成人式」が欠落している、ともいえるかもしれないが、その空白を埋めるものは多い。各種アートや哲学、霊学的思索、AIや技術文明をあえて引き受ける姿勢、誰にも見られずに大切と思うことを引き受ける決意などなどだ。

時がたつと、どんなことでも形骸化する。堅信礼もそうだ。多くの国や地域で、堅信は、なんとなくやる通過点で、信仰は日常生活ではほぼ関係なし、という感じになっている。近年は、堅信礼を受けず、教会から静かに距離を取るという若者が増えているそうだ。形式だけで誓ってもそれを人生で使った実感がない、という思いからきているのかもしれない。

ちなみに、堅信礼を受けた人は、社交上の特別なマナーを教えられる。堅信礼におけるマナーとは、社交テクニックではなく、他者・社会・神の前に立つときの“身の置き方”だ。日本的な作法や礼儀に近い。

具体的には、“皮肉・嘲笑・侮辱を避ける、集団の場では「自分の自由」を抑制する、 年長者・弱者・客人への優先、目立とうとしない立ち位置の取り方、無意味な身体接触を避ける”、などがある。

さらに、“語らない勇気を持つ、沈黙が相手を守ることがあると知る、自制できる者だけが自由である、欲望を即座に外化しない”、等の自覚がある。これは、「自由は責任を引き受ける能力である」、という西洋倫理の核心だ。

異性に対しては「親しさ」でも「禁欲」でもなく、まず〈距離を保った尊重〉が教えられる。それは恋愛マナーではなく、人格同士が出会うための前提条件となっている。からかい、美醜・性的魅力の評価、所有的な視線、期待の押し付けは、人格の侵害として明確に否定される。「好きだから付き合う」よりも「この人の前で、自分は誠実でいられるか」が判断基準になる。

これは日本の伝統で言えば、「馴れ馴れしくしない」「間合いを崩さない」「色気を表に出しすぎない」といった感覚に近い。現代ではほぼ失われてしまっているのかもしれないが。

人智学的にみた大人とは、「自分の衝動・感情・生命力を、言い訳せずに引き受けている人」といえる。もちろん完璧な人ではない。うまくいったことも、失敗したことも、誰かを傷つけたことも、それを運命の一部として、自分の内に引き受ける存在だ。これは自己責任論とは違う。「罰を受ける」のではなく、学びとして抱え続けるという態度のことをさす。

別の見方をすれば、大人とは、「答えを持っている人」ではなく、答えがまだ生まれていない領域を、耐えて生きられる人といえる。だから本当の大人は、強く見えないことが多く、迷っているように見える。その沈黙や逡巡こそが、霊的な成熟のしるしといえるような気がする。