人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

囲炉裏はどこにいった?

囲炉裏端

いきなり、「なぜ日本では“囲炉裏”が神聖だったのか」、という問いから入ります。

もちろん、それが「神が一時的に人間界に座す場所」だったから、ということだと思うが、もう少し掘り下げてみたい。

囲炉裏は「家の中心」だったし、家族が輪になり、“食と語りと沈黙”が集まる場所でもあった。食と語りと沈黙といっても、今と昔とは全然違うような気がする。食べ物に対しての感謝、お互いの中に分け入りたいと思う心、情報交換ではない静けさ、それが今はどうなっているだろうか。

囲炉裏の火は、爆ぜないし、高く燃え上がらないし、常に世話が必要だ。人間の意志が、自然の火と和解しながら、共同体として保たれる場だった。

囲炉裏の火は起こされ、維持され、消される。火は、人間の関与なしには存在し続けられない。囲炉裏の火は落雷の火でもなく、自然の野火でもなく、支配・利用のための工業的な火でもない。人が見守り、調整し、共に生きる火だ。

日本家屋で囲炉裏が家の中央に置かれていた意味は、「意志が温められる中心だった」と解釈されうる。

囲炉裏が特別なのは、それが一人で向き合う火ではないということだ。誰かが薪をくべ、誰かが灰をならし、誰かが火を見張る。そして、誰かが黙って座る。これは、「意志は、単独では健全に燃え続けない」ということを示しているのではないだろうか。囲炉裏は魂が他者と一緒に温められうる構造をもっている。

キリスト者的な表現をすれば、囲炉裏は「愛が熱として現れる場所」と言えるかもしれない。

囲炉裏とは、人間が、自然の火を支配せず、放棄もせず、共に生きていた記憶だ。それを「懐かしい」と感じるなら、それは過去への郷愁ではなく、魂が本来知っている中心を思い出しているというサインかもしれない。いわば、内面の火祭りだ。

現代の囲炉裏はどこに見いだされるのだろうか?

物理的な囲炉裏がなくても、霊的な囲炉裏はつくれる。それは、火を見ながら沈黙する時間とか、同じ空間で同じ方向を見る集まりとか、誰も主導しない対話とか…。

冬に、暖を分け合うどんなささいな行為でも、そこには魂の囲炉裏があると言えるように思う。

夜も遅くなり、だいぶ冷えてきた。ガスストーブに火を入れることにする。