
先週、日光と鬼怒川温泉に行ってきた。輪王寺の金剛桜が目当てだったのだが、7分咲きくらいでほどよく、幸運に恵まれた。本来は、桜の前で静かに瞑想し、花と一体になるべきだったと思うのだが、普通の観光客のように、ただ写真を撮りまくってしまった。まだまだ、修業が足りない。

この旅で印象に残ったことは三つある。ひとつは、ホテルの中の巨大な吹き抜けホールに置かれているパイプオルガンから流れるバッハ。この不意打ち体験は新鮮で不思議だった。温泉に入って一杯やって浴衣でバッハ。この取り合わせは、一体なんなのだろう。享楽気分と敬虔な感情は一緒に経験してもいいのだろうか?

あとの二つは、石楠花と山吹である。晩春のこの季節だから、なおさらなのかもしれないが、この二つの美しさはひどく心に沁みてくる。若いころはそんなでもなかったように思うのだが、なぜ、こうまで深く響くのだろう。
年を重ねると、人は植物という存在に近くなってくるのだろうか。
今の自分を見てみると、動きが緩慢になり、色々な刺激に対して反応はゆっくりとしてきている。また、関心を外の情報よりも内側へ向ける傾向が強くなってきている。これは、植物の在り方に似てきているといえる。動かずに周囲の環境と調和しながら生きている、という意味で。
若いときは時間は前へ前へとひたすら流れていたように思うが、今は、季節や気候や自然の光などに敏感になったせいか、時間が循環しているような、時には止まったようにも感じることがある。この時間のめぐり方が、植物的といえるのかもしれない。
人が植物的な在り方に近づくとき、それは一種の退行なのだろうか。それともより高次の段階への進化なのだろうか?
植物は動かず、風にも抵抗せず、ただ環境の中で成長し続ける存在だ。周囲に100%「素直に」適応している。そういうあり方に触れると、ふだん強く働いている、判断する意識とか、操作しようとする意志とか、自分と外界を分ける感覚とかいったものが、いっとき、ゆるむのかもしれない。
だから、安らぎと懐かしさまで感じるのか。「生命世界への懐かしさ」とでも言えるような、理由のない「帰着感」のようなもの。植物を美しいと感じるとき、人は単に対象を見ているのではなく、自分の中の生命的な層と共鳴していると読むこともできる。
植物を美しいと感じる瞬間、それは年寄りの感傷ではなく、「自分がどこから来たかを思い出しかけている瞬間」なのではなかろうか。それとは逆に、ときには花が、「ただ目の前にある」のではなく、「何かを語ろうとしている存在」のように感じられることもある。ただ、それが何なのかは、わからない。花は黙ったままだ。
花を見ていて、「こんな風に生きられたらいいのに」と思うこともよくある。迷いも心配も悩みもない世界だ。花のように「ひたすら自分の命を生きている」という生き方はなかなかできない。
神や精霊と一体となって生きていた古代人は、花に何を見ていたのだろう?