人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

テレビの見方について

人智学では、感覚の種類を常識よりも多く認識していて、全部で12種類あるとしている。その中で、聞きなれないと思われるひとつが、「他者感覚」だ。他者感覚は「他者の自我を感じ取る感覚」と言われている。

シュタイナーはこう言っている。

「我々は、他の人間の自我を直接に知覚することはできない。しかし、我々はその人の言葉、身振り、眼差し、声の響きを通して、その背後に自我の存在を感じ取る。」

このとき、相手の中に自分と同じ「人間の中心」が生きていることを感じ、この感覚によって、真の共感や倫理の源泉が生まれるとされる。人間が精神的に成熟するほど、相手の「外的特徴」ではなく「内なる意志・運命・使命」を感じ取るようになる。

若い時に外見で異性に惹かれたのは、未熟だったしるしと言える。自分のことだ。

シュタイナーはまた、他者感覚を「愛の器官」とも呼び得るものとして語っている。

「他者の中に自我を感じ取るには、愛の力が必要である。愛こそ、他者を霊的に知覚するための感覚器官を開く。」

他人をいつも多少なりとも批判的に見ている私は、「他者感覚」をまだ持てないでいる人間だと言えるだろう。今日では、SNSやAIによって「他者との接触」は増えているが、実際には「他者感覚」は鈍化していると言える。

ここで、「テレビを使って他者感覚を磨く方法はないか?」という問いを立ててみた。テレビは「直接会えない他者」を媒介に、観察力と内的共感を育てる道具になりえるかもしれない、と思ったからだ。

考えられる方法とは、

1.判断を保留して観る
 番組や人物を「好き・嫌い」で見ず、声・しぐさ・沈黙・間に注目する。
2.姿勢の模倣による共感訓練
 登場人物の姿勢や呼吸を自分の身体で再現し、そこから感じる内的気分を観察する。
3.映像を消して音声だけ聴く、または、音声を消して映像だけ観る
 どちらかを遮断することで、他者の「意志」や「感情の流れ」をより明確に感じ取れる。
4.視聴後の沈黙瞑想
 見終わったあと、印象に残った人の姿を思い浮かべ、「その人の内に何が働いていたか」を静かに感じる。

のようなことが考えられる。

こうしてテレビを「情報源」ではなく「観察と沈黙の訓練場」として用いると、他者感覚は確かに磨かれていくように思える。受け身の視聴ではなく、「霊的に観る態度」の養成になっているからだ。ここで「霊的」とは、「能動的」と完全に同じことをさす。

ドルナッハにある人智学の本部では、テレビを見ると自我が破壊されるので基本的に禁止している、と聞いた。だが、日本人智学協会の高橋巖先生は、そのような杓子定規を嫌っていた。特に老人にとってテレビは、慰めになりえるというようなことをよくおっしゃっていた。

テレビの映像は人間の想像力や感情に直接影響するし、視聴者は受動的になりやすく、自らの内的判断や想像力を働かせる機会が減少するのも事実だと思う。長時間のテレビ視聴は、リズムや自然とのつながりを乱す可能性がある、という指摘もある。視聴者は「自分で考える時間」を持たず、感情的・感覚的な反応だけを引き出されやすくなる。

テレビは、個人の自発的な判断よりも、外部からの感情的・思想的印象に依存する傾向を生みやすく、霊的には、「外から与えられたイメージをそのまま受け入れる状態」は、自我や内なる霊眼の働きを弱める、という主張も確かにうなずける。

映像や情報を自分の感情と思考で咀嚼して判断することが、なにより重要だと思われる。ほとんどの人が、咀嚼しないで、そのままただ口を開けてみているのではなかろうか。

テレビは確かに、人間の内的判断や想像力を鈍らせる力を持っている。魂の自律性を弱め、外部からの思考誘導に依存させる作用もまた持っている。思考や想像力を「物質世界の単純な情報処理」に閉じ込める力があるのだ。結果として見る者は、外部の思考や価値観に依存する‘奴隷’となる。

これを避けるには、「能動的に視聴する」しか方法はない。この使い方なら、テレビも魂の成長や霊性の理解に資するツールになりえる。重要なのは「テレビそのものが悪」というよりも、「どう使うか」だ。

テレビのパワーに負けないように、視聴に励み、使いこなしたいと思う。