新聞の記事で「有機還元葬」というものをはじめて知った。遺体を堆肥化し、土に還すことで新たな生命の循環を生み出す葬送のかたちだそうだ。アメリカやドイツでは合法化され、日本でも実現を求める声が年々高まっているらしい。
遺体を自然な形で生分解して堆肥に変え、養分として新しい命へ循環させる葬送で、カプセルの中に、亡くなった方と木くずや藁などを入れて安置し、4~6週間かけて堆肥にするという。
この話を聞いて驚愕する以上に、魂の底から震撼させられてしまった。なぜなら、葬儀とは“霊的還元”のことであり、“有機物への還元”という考え方など、思いもしなかったからだ。
私がまず考えたのは、「有機還元葬の背後には、唯物思想があるのか?もしあるとしたら、それは危険な思想ではないか」というものだったが、その答えは、きわめて難しいものがあると思い至った。
それは、有機還元葬を望んだり、推進したりする人の中には、どんな動機があるのか、という問いに係わる。
想定するための声として、新聞記事から部分的に引用してみると、
・「堆肥になりたい」、という願望がある。
・「狭いお墓は嫌」
・「すべての物質は、地球のもの。未来のために私の体が役立てばうれしい。」
・「よい土になるために食べものにも気を付けたい。」
といったものだが、これらの声をどんな観点でとらえたらいいのだろうか?
有機還元葬に賛同する人々に対するアンケート調査などは行われていないので推測するしかないが、大きく、三つの動機が想定できるように思う。
有機還元葬の希望者は、「人は死後、自然へ還る」というイメージを強く抱く。この考え方では、「個別の霊魂が存続する」というよりも、生命全体の循環の中に自分の物質とエネルギーが再配置されるという理解が中心になる。ここで重視されているのは、個の霊魂の永続ではなく、自然・地球・生命全体への融解といっていい。つまり、霊魂という語を使わないまでも、「生命そのもの」への帰入として死をとらえているわけだ。これを新しい「霊性」と言っていいのかどうかは、まだわからない。
二番目は、霊魂の個的存続や再生を信じにくい人が、科学的合理性を重んじ、「腐敗→土→新たな生命」といった生態学的説明を重視するという傾向だ。この点で、有機還元葬は「唯物主義の延長線上にある自然信仰」といえる。「死ねば何も残らない」「自然に還るだけ」とだけ考えるなら、頑固な唯物論になってしまうが、単なる無神論ではなく、自然への畏敬を通じて新たな霊性のようなものを模索する態度も感じられなくもない。近代唯物思想にも、ある種の“宗教的な謙虚さ”が潜んでいる。
三つめは、「個の霊魂は広大な生命の流れに溶け、別の形で生き続ける」と考える。これは、仏教の「無我・縁起」、シュタイナーが語る「地球と霊界の協働」という汎神論的な霊性観と響き合う部分がある。つまり、個としての霊魂を失うことに恐れを抱かず、全体との合一を霊的価値とみなす思想だ。人智学の霊魂観では、人間は死後、星々の領域を経て霊的存在として存続し、次の転生へと向かうという個的霊魂の持続性が前提なので、有機還元葬の思想に見られる「個の消滅」や「自然への溶融」は、霊魂の発展を止め、地上的プロセスに閉じこめる危険性があるといえる。「身体が自然に還ること」と「魂が霊界に還ること」は別の次元の出来事なのだ。
霊魂の行方が自然の循環に吸収されてしまった理由を歴史的・思想史的に見ていくと、中世以前は、共同体は死者との交流(追善供養・祈り)を当然視していた。つまり、霊魂は地上を去ったあとも、共同体と関わり続ける存在だった。17〜19世紀、科学革命と啓蒙思想によって、「霊魂」は観測不能な仮説として排除されてしまう。その結果、“死後の霊魂”という観念が後退する一方で、“自然”が新しい聖性を帯びはじめる。
20世紀に入り、都市化と医療化が進むと、死は家庭から病院へ、墓は共同体から管理施設へと移行する。その中で生まれたのが、「自分の死を環境に負担をかけずにしたい」「自然に還りたい」「土に戻りたい」というエコロジカルな倫理と死生観の融合だ。
人智学的に見るなら、この流れは「魂が物質界に沈降した時代」の表れといえる。今は、魂が天上の霊界から切り離され、地上に沈む時代なのだ。外的自然には親しみを感じるが、霊的自然(天使・星・死後界)を信じにくくなった。
外的自然と、霊的自然を区別することは難しい。現代の霊性の課題は、「霊魂を自然から切り離さない」ことと、「霊魂を物質に溶かしきらない」ことのあいだにあるような気がする。
「死とは物質の変化に過ぎず、意識・魂は存在しない。よって、葬儀も自然の物理過程として完結させればよい。」という動機がもし存在するとしたら、これは恐ろしいことのように思える。有機還元葬は、生命全体との一体感を求めるスピリチュアルな動機も含まれていることを祈りたい気持ちだ。