人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

振り返らずに生きていくこと

オルフェウスとエウリデュケ

ギリシア神話のレクチャーで竪琴の話を聞き、オルフェウスのことを調べてみた。

その主要な部分は、

「オルフェウスは、美しいニンフのエウリュディケと結婚するが、結婚直後、エウリュディケは蛇にかまれて急死してしまう。彼は悲嘆に暮れ、竪琴の力で冥界へ降り、妻を取り戻そうと決意する。彼は、“彼女は若く、罪なきままに死んだ。どうかもう一度、生を与えてほしい”と冥王に懇願し、許しを得るが、冥王は“決して後ろを振り返ってはならない”と告げる。オルフェウスはエウリュディケを後ろに従えて地上へ向かうが、もうすぐ地上というとき、彼はあまりの不安と愛しさに、振り返ってしまう。その瞬間、エウリュディケは再び冥界へと消え、今度こそ永遠に失われてしまいました。」

という話だ。

「振り返ってはならない」というタブーは世界の神話に見られる。オルフェウス神話だけでなく、ロトの妻、イザナギの冥界訪問、ペルセポネー伝承、さらには多くのシャーマン神話などだ。

古事記を読んでいても、昔から、なぜ振り返ると取り返しがつかなくなるのか?という疑問があった。

はしだのりひことシューベルツが歌う「風」という曲に、“振り返り”のことがあったのを思い出した。歌詞の一部はこうだ。

帰っておいでよと
振りかえっても
そこにはただ風が
吹いているだけ

振りかえらずただ一人
一歩ずつ
振りかえらず泣かないで
歩くんだ

過去の後悔や喪失体験、ノスタルジーに心を囚われるとき、人は未来の可能性を失っていくのだろうか?

人智学的に解釈すると、冥界への下降は自我が「死の領域」に入り、魂を救おうとする過程とみられ、「振り返る」とは、意識が霊的直観から感情的執着に戻る瞬間と考えられる。

振り返ることには、霊的な転換点での「意識の方向性」をめぐる、深い象徴が含まれるように思う。霊的上昇の最中に、再び感覚世界へ注意を戻すことを意味する。オルフェウスは、「霊的信頼」ではなく、「感覚的確かさ」を選んでしまう。つまり、見たいという欲望だ。霊界へ向かう途上で“振り返る”とは、霊的認識を感覚的確実性に引き戻してしまうことを表している。

人智学では、「人間が霊的世界へ進むには、見えぬものを信頼し、過去への想いを断ち切らねばならない。」と言われ、振り返る行為は、この創造的未来への信頼を失う瞬間として、象徴的に語られる。

オルフェウスとエウリュディケの場合、愛の対象を通じて、霊的直観が感覚に引き戻される。イザナギとイザナミの場合は、黄泉からの帰途で死の領域を見たいという欲望が、穢れをもたらす。創世記にあるロトの妻はソドムを逃れる途中で振り返るが、古い世界への執着が魂を塩の柱にする。塩の柱とは、固執することの比喩だ。

これらはいずれも、「境界を越える瞬間に、決して過去を顧みるな」という戒めを共有している。それは、「変容の門を通るとき、古い自己を手放せるかどうか」という試練と思われる。

「振り返らずに進む」ことができれば、失ったものさえも、より高いレベルの存在へと昇華されうる。オルフェウスが琴座となったように、「喪失を通して天上の調和を取り戻す」道が開かれる。

やはり、はしだのりひこは偉大だ。