ふと思い立って今晩は、バッハの無伴奏バイオリン・パルティータ第一番からサラバンドを弾いてみた。昔からとても好きな曲で、初めて弾いてから数十年になるが、指が勝手に動いてしまう。
この曲を弾きながら、遠い昔のことを色々と思い出したのだが、同時に「遠いと近い」とは、魂にとってどんな意味があるのか?という思いを抱いた。
弾いている最中の時間感触としては、瞬時に昔に戻ったような感じがある。この感覚とは何なのだろうか?
人智学でいうと、精神界では物理空間というものは存在せず、「響き合うものが近い」「響かないものは遠い」という認識になる。響くというのは、親和性と言ってもいい。「距離」は関係の強度を表しているにすぎない、と言われる。肉体的に近くいても、魂が隔絶していれば“遠く”、 地球の裏側にいても、魂が深く共鳴していれば“近い”といえるものだ。
距離を作るものは、「快・不快」「好む・嫌う」、「理解できる・理解できない」、「真理を共有できるか」などだ。
精神界では時間も空間のような“関係性”になる。未来の使命に自分を開いていれば未来に「近い」し、物質的なものに固着していたり、恐れや記憶に縛られていれば、それもまた過去に「近い」、と言える。
会った途端に「懐かしい」「理解できる」と感じる人は、出会う前から“近い”といえるし、物理的にそばにいても中身は“遠い”人もいる。
「近い、遠い」を思い出と関連づけて読むと、どうなるだろうか?
思い出とは “魂の中の霊的な距離” の最も分かりやすい表現といえそうだ。昔のことでも鮮やかに蘇る思い出は「近い」と感じるし、逆に最近のことでも曖昧になってしまうものは「遠い」と感じる。魂の中で本質的に関わった経験は霊的に近く、表面的・偶然的な経験は霊的に遠い。
人智学では、「記憶とは、過去そのものが保存されているわけではなく、生命体に刻まれたリズムを、魂が再び“触れる”こと」という認識をする。
「近い思い出」とは、言い換えれば、その経験が内的発達を形成していて、カルマ的に大きい意味をもっており、今も栄養を与え続けている、といえる。数十年前の光景が鮮明に蘇る時、それは霊的には「今ここにある」のと同じだ。
ギター演奏のような「身体化された技能」は、エーテル体の“律動組織”に刻まれる記憶だ。考える前に指が動く、音の流れや体の重心が自然に蘇る、ことを思うと、これは生命体そのものに刻まれた“持続する形”が残っているということなのだろう。数十年の時間は魂的・本質的には“ほんのわずか”だったということだ。数十年前の自分と今の自分は、意識の深層では距離ゼロになっている。過去の出来事が今ここに存在しているということだ。
バッハのパルティータ第1番サラバンドを弾くと、若いころ抱いた宗教心が、今も全く同じように感じられる。サラバンドはバッハの作品の中でも特に厳粛さ・祈り・重力と光の均衡を感じさせる舞曲だ。一歩一歩踏みしめるような重さ、休符の間の“沈黙”、祈りのような旋律。そのような世界に帰ってこれた、という深い至福感がある。
今年の発表演奏会まであと2週間だ。静かに練習を続けようと思う。