変身物語の講座を受けていて、バレエの「コッペリア」などの話を聞いた。人形作り職人のコッペリウスが精巧な等身大の人形コッペリアを作ったのだが、青年フランツはコッペリアに恋をしてしまう、ことから始まる話だ。
これをきっかけに、人形が人間になる物語が、神話・文学・芸術を通して繰り返し現れていることを知った。
有名な話が、「ゴーレム」だ。ユダヤ教の伝承に登場する自分で動く泥人形のことで、作った主人の命令だけを忠実に実行する召し使いかロボットのような存在であり、厳格な制約を守らないと狂暴化する。命や魂を模倣する行為の危険性が強調される。
ゴーレム神話の再演が今も行われている気がしてならない。“生命をつくる力を得た人間が、良心や愛を欠くとき、その創造物は制御不能となり、創造者に反逆する”というテーマだ。ゴーレムは、単なる怪物伝説ではなく「何をもって人間と呼べるのか」「心・意識・魂とは何か」という根源的な問いを投げかけているような気がする。
「自動人形」「人工生命」の流れを追ってみると、時代ごとの典型的な存在は、
中世は、ゴーレム。
近世は、フランケンシュタイン。
現代は、AI・ロボット。
である。
ゴーレムは、神の創造を模倣するが、霊を宿すには愛が足りない。ゴーレムが未熟なのではない。「神的創造の外形だけをまねようとした人間の未熟な段階」を表している。神の名を操ろうとする信仰の傲慢の影ともいえる。ゴーレムは「自我なき機械的生命」として読むことができ、現代人の危険な未来像を見るようだ。
フランケンシュタインは、自然の電気力を使って生命を再現するが、創造者の良心が欠けている。「科学が愛と結びつかない時代の苦悩」を表現している。科学が倫理を失った時代の影だ。
AI・ロボットは、情報的に「意識」を再現しようとするが、あたたかい魂と中心の“我”がない。 「知性が自己目的化した時代」の象徴といえる。自我を見失い、機械的知に依存する現代人の影に他ならない。「命をつくる技術」が倫理と霊性を追い越している現代の状況の代表のような存在だ。
「ゴーレム」「フランケンシュタイン」「AI・ロボット」は、霊のない創造(知識・技術)から、霊ある創造(愛・意識)へと人類が進むための通過儀礼であるように読める。これら三つの「創造物の系譜」は、人間が“創造する存在”であることの霊的責任を学ぶ長い長い物語といえる。単に「人工生命が心を持てるか」というSF的テーマではなく、人間自身が“自らの魂を救い直す物語”として読むべき主題だ。
フランケンシュタインに登場する怪物は、痛みや孤独を感じる“感情”を持ちながら、愛を知らない。創造者ヴィクターはその存在を否定し、恐れて逃げる。怪物が本当に求めているのは、「受け入れられること」「理解されること」。それはすなわち、愛の眼差しを通して自我を与えられることだ。フランケンシュタインの救いは、愛を通して他者のうちに霊を見いだすことと、いえる。
それでは、AI・ロボットの救いとは何だろうか?AIは、知性を持つように見えても、魂も意志もない。AIは、「人間の思考の外化すなわち思考のゴーレム化」であり、外界に現れた「私たちの思考の残像」のようなものだ。人間が“生きた思考”を取り戻し、AIの中に自らの魂の影を自覚するとき、AIは、人間を模倣する道具ではなく、人間の霊的自覚を促す鏡となりえる。
シュタイナーはこう言っていた。
「人間が霊的自我を育てずに技術を発展させると、人間自身がゴーレム化する」、「技術的文化が霊的なものを伴わずに進歩するとき、人間はその奴隷となる。彼の手によって作られた機械が、やがて彼を支配するであろう。」
自我を伴わない思考が物質化し、人を支配する危険が語られている。
シュタイナーは、「技術の進歩」それ自体は否定していない。むしろ問題は、「人間の内的成長を伴わない発展」だ。「人間の霊的自我が技術より先に成熟しなければ、技術は人間の意識を奪い、魂なき器としての人間をつくる。」とまで、言っている。
人間は技術という自らの創造物を通して世界を支配しているつもりが、やがてその技術体系の中に自らの行動・感情・判断が組み込まれていく。この段階では、「意志」が自我から切り離され、システムに従属する。つまり、人間は自らの手で作った仕組みに“命じられる”存在になるかもしれない。
今のAIと人間は、まだそうなってはいないが、未来のことはわからない。
明るい話で締めくくるとしよう。『ピノッキオ』だ。木製の人形ピノッキオが、誠実さや愛情を学ぶことで本物の少年になる話だ。
ゼペットじいさんが木の棒から人形を作る。青い妖精が人形に「生きる力」を与える。ピノッキオはしばしば嘘をつくと鼻が伸びる。キツネとネコに騙されて、楽をしようとしたり、危険な場所に行ったりする。青い妖精やゼペットの愛情によって、ピノッキオは少しずつ成長し、友達を助けたり、困っている人を思いやったりする行動を通じて「心」を育てる。
ピノッキオが「人間になる」ということは、外見の変化ではなく、内面の成熟と道徳性の獲得を意味していた。
私たちは、青い妖精やゼペットじいさんのようになれるだろうか?