明治時代に気象の統計を取り始めてから、今年は一番暑い夏だそうである。毎日のように“危険な暑さ”が連呼されているが、外出することも多く、外の猛暑と部屋の冷房の差にかなり参ってしまっている。猛暑の原因は、太平洋高気圧とチベット高気圧が重なっているせい、などと言われているが、原因には人の活動と切り離せないものもあると感じる。
都市化・機械化・産業の発展などで、人は自然とどんどん離れてきており、さらには自然を破壊しているという議論が一般的になっているが、本当は自然と人とは強く結びついているように思う。人は、自分が無意識に本来好きなもの・一体だったものを壊している、と言える。壊すことによって、精神的な活力を失ってきている。
地球の温暖化は、純粋な自然現象ではなく、人の“快適さの追求”から生まれたと思うのだが、私が今まで生活してきた根本的な動機や心情を振り返ってみれば、それがよくわかる。車は便利で快適だし、冷暖房もないと不快だ。山を削り取って作られたコンクリートでできた大きなオフィスビルで働けたのは、自慢でもあった。変な言い方だが、「セメント愛」のようなものだろうか?そればかりでなく、ほとんどあらゆる場面・状況でとにかく、「楽をしたい」という衝動が私を支配していたように思われる。仕事でも、楽にこなすにはどのようにすればいいか、ということを常に考えていたような気がする。つまり、そのためのHowやto Doばかり追求していた。
物質面から見ると、様々な快適生活・活動が、結果的に二酸化炭素等を増やし、それが温室効果に結びついて、だんだん暑くなる、という単純な図式が言われる。それはその通りだと思うので、「快適さの追求」に注目して、人智学で言われていることを整理してみた。
シュタイナーは、快適さ・安逸さを求めすぎると、人間の内的な力、つまり意志・感覚・思考が麻痺し、魂の眠りにつながると述べている。物質的な快適さや便利さは、地上生活を整える意味では有益だが、それに安住すると「意識の覚醒」や「霊的な感受性」を鈍らせる、とも言っていた。
快適さは「休息・回復」のためには役立つが、「目的」になってしまうと堕落を招く。「快適さそのものが悪」だとは言っていないが、不便や困難を引き受け、内的に乗り越える姿勢がともにあることが不可欠であることを強調している。シュタイナーにとって「快適さの追求」は、文明的には避けがたいが、常に「克服すべき誘惑」として意識されるものだった。
シュタイナーの著作にこのような記述がみられる。
「思考の快適さは、多くの人がそのために妨げられるのです。彼らの精神の武器は鈍くはないのですが、その持ち主がそれを扱うのが怠惰なのです。事実を積み重ねる方がはるかに便利ですが、真理に至る理由を思考によって探るよりも、誰かが反論してくる可能性を避けられるのです。」
何が言いたいのか、よくわからないところがあるが、集められた事実自体は、反論されにくいので、それだけで済ませ、満足しようとする安楽さのことを言っているように読める。事実に意義を持たせる思考を働かせることが一番大切だ、ということか。
私もついAIに頼ってしまうことがある。楽だからだ。気が付かないうちに思考力を奪われていることを、常に意識しておきたい。自分で自分を破壊しないように。