人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

お盆に死者のことを思う意味

精霊棚、迎え火・送り火などには宗教的意味があるが、現代では、宗教が「実感を伴った世界観」ではなくなっており、「死者が戻ってくる」「霊を迎える」といった霊的リアリティが信じられにくくなったような気がする。ただ年中行事として行っているような雰囲気が感じられる。

かつては「死者は身近な存在」「生者と共にある存在」としてとらえられていたと思うのだが、盆踊りや灯籠流しなども、伝統行事から「イベント」へと変わってきている。形式や習慣的行事だけが残り、「なぜ行うか」が忘れられがちになってしまった。ただ、一部の農村や宗教コミュニティでは、今でもお盆は霊との「再会のとき」として生きているとは思うが。

お盆という古くからの霊的行事を、形骸化に抗しつつ、現代にふさわしい形で再生するには、「死者と生者の関係」を改めて霊的に問い直す必要があるように思う。

人智学では、死者について、およそ次のように考えている。

死者には「食べ物」がある。お供え物のことではない。生きている者の思考・記憶・祈りを“霊的栄養”として受け取っており、特に、「愛と思慮深い思考」が死者への最大の贈り物となる。

シュタイナーの言葉を少し抜き書きしてみた。

●「昔は祈りの中に、死者のことを思う人々から、暖かい愛の息吹が流れてくるのを、死者たちの心魂は、容易に感じることができました。かつては、死者といきいきと交流できることが、人間の心魂にとって自然なことだったのです。」 → 精霊棚の前で手を合わすときは、故人を思わない人はいないと思うが、お盆が終わった日には、もう忘れているのではないだろうか?

●「死者が目の前に立っているかのように感じながら、内的な思考をすると、それは死者にとって大きな慰めとなります。私たちは本当に死者のために精神科学の本を朗読できるのです。」 →  精神的な書物を心を込めて、死者に向かって読んであげる、というのが最もいい供養だ、とも言っている。本当によく理解している聖典類なら何でも構わないと思う。

●「生きているあいだに何の関係も持たなかった人々からは、死者は養分を得ることはできません。」  → これはつまり、家族・友人・知人などしか供養はできない、ということで、生前一度も接したことのないお坊様に、どんなに読経してもらっても決して届かない、と言える。

●「地上にいる人が死者に対する愛情を持っていても、死後の魂の永続を信じていないと、死者は、その人にまなざしを向けることができません。」 → 言ってみれば、死者は、生きている人がどんなに愛情深くても、唯物主義者だったら、その人を見ることも感じることもできない、ということだ。

●「死者を何らかの外的なもののなかに探すべきではありません。死者が絶えず存在していることを意識すべきです。」 → つまり、死者は何かの偶像や物の中にいるのではない、ということのように聞こえる。ご飯やお供物をのせた盆でもない。生きている人間の中にいる、と言ってもいい。

一説に偽経と言われている盂蘭盆経の伝える「地獄の苦しみにある亡者を、子が供養によって救う」という話は、シュタイナーの「生者の思考が死者に届く」という考えと重なる。お経を読むのもいいが、死者に対して、例えばこんな風に呼びかけることから始めるのは、どうだろうか?
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あなたの姿はもう、
この世界の中には見えません。
けれどあなたの存在は、消えたのではない。
あなたは、時と空間の奥に移り、
今も別のかたちで生きています。
わたしは今、
あなたの魂に向かって、
思考を灯火のように手渡します。
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そして、純粋な精神で十分に心を込めて静かに朗読に入るのが、よいかと思う。

お盆の時の人の心は一般に、素朴で感情的な「死者への郷愁と感謝」と言え、人智学の考え方は、それを一歩深めて「死者と生者が互いに必要とし合う協働関係」として理解させてくれる。つまり、お盆で自然に湧く心は、人智学が意識化しようとする「生死を超えた共同の営み」の入り口にあたる、と言えるかもしれない。

お盆は、仕事や生活で忙しい現代人にとって、普段忘れがちな故人を思い出すとてもいい機会だが、死者はいつもそばにいる、ということを覚えていてほしい。シュタイナーは、“死者と生者が互いに必要とし合う協働関係”があれば、人智学など必要無いくらいだ、とも言っている。死者と対話を交わす機会は、本当にいつでもあるが、それはひたすら私たちの“思い”にかかっていると言えそうである。自分の生と死の問いに向き合う時間を作ることにもなる。

「どうか、この思いが、あなたの旅路を照らしますように。」お互いにこう言えたら、どんなに素晴らしいことだろう。