「世界の民俗音楽」という生涯学習講座の受講が先月終わった。芸大の先生が、ビデオで色々な音楽を紹介してくれ、その歴史や背景などを学んだ。最終回は、ハワイのフラが取り上げられ、特別講師としてフラダンスの先生も加わった。
映像をみて講義を聞いていればいいのかと思ったが、最終回は、フラのダンスの実習があった。実際に踊ったのである。フラは全く初めてなので、戸惑ったが、なかなか興味深かった。頭を使わない「学習」は、すごく新鮮だ。
フラダンスは、もともと自然の神々やハワイ王族を賛美し、祈りを捧げる神聖な踊りだが、この講座で踊ったのは、男性向けの「戦いのフラ」である。ほんの短時間に習っただけだったが、女性が踊る曲線的で流れるようなフラとは対照的に、男性らしい力強さを存分にアピールする動きに特徴がある。重心をより低く保ち、直線的でクイックな動き、歩幅が大きい点も女性とは違う。大地を踏み鳴らしたり、胸や太ももを叩いたり、ステップにキックが入るなど、ダイナミックで躍動感がある。
受講後に思い出したのが、ライアル・ワトソンの『未知の贈り物』だ。以前、この本に書かれた「イカの眼の感覚力」について、書かせていただいたが、今回は、ある島での「踊り」についてだ。
ライアル・ワトソンは、こんな風に書いている。
“踊りは、現実のあらゆる形の中でもっとも基本的で有意義なものである。内的体験に外的形態をこれほど効果的に与えられるものは他にない。詩や音楽は時間の中に存在する。絵画と建築は空間の一部である。しかし踊りのみが空間と時間の中に同時に生きることができる。踊りの中では、創造主も創造物も、作家も表現手段も、一体となる。相互に完全に浸透しあう。宇宙のメカニズムを理解するために、これ以上の隠喩はありえない。”
『未知の贈り物』にでてくる「踊り」は、精霊と語り合う舞であり、踊りというよりも“儀式”といっていいものである。神聖な場で、まるで自然と一体となるように踊る。
ライアル・ワトソンは、「踊り」を、単なる身体的なリズム運動ではなく、人間と自然・宇宙との深層的なつながりを回復させる行為として描いている。何からの回復なのか、と考えた時、それは、‘科学や知性のみで生きること’からの回復と思われる。ワトソンは、「科学だけでは捉えられない世界」があること、数字や論理ではなく、「身体の直感」「自然との共振」こそが世界を生きる実感をもたらす、と感じたのではないだろうか?
踊りは、身体・感情・環境・他者と一体化する総合的な経験をもたらす。これは、近代知性によって失われがちな「全体との調和」を回復する手段となる。科学が「分ける力」なら、踊りは「結ぶ力」。両者を併せて持つことで、人間はより健全な全体性を保てる、というのがワトソンの洞察だったと思われる。
踊りだけでなく、身体を動かす行為(農作業、大工仕事、手仕事など)も、単なる筋肉運動ではなく、人間の意志の力を肉体を通して世界に働きかける営みと言える。知的労働=精神的、肉体労働=低次という価値観は、むしろ逆である、と言いたい。思考や分析、知的作業といった頭脳労働は、“最も物質的な活動”であり、それは脳という物質への依存度が高く、そのため逆説的に「唯物論に陥りやすい」と解釈されうる。
頭脳の働きは大切だが、それだけでは人間は片輪走行になる。日ごろ、本を読んだり、PCで情報を集めたり、知的な講義を聞いたり、こうして今頭を使って書いたりしている自分は、かなり片足走行になっている。
祭りで、神輿担ぎや踊りに熱中するのは、バランスを回復する最高によい体験だと思う。もう少し若ければ、町内会の掲示板に貼ってあった「神輿の担ぎ手募集」に応募するのだが…。