人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

俳句をシュタイナーの十二感覚論とつなげる試み

今日は俳句の日だそうだ。常日ごろ、俳句に表現される“人間の感覚”の広さに驚嘆しており、シュタイナーの十二感覚論で俳句を眺めると、どんな対応が見られるのか探ってみた。俳句は「思考で解釈する前に、感覚印象そのものを魂で受け取る」という性質があると考えたからだ。

俳句には、季節があり、映像があり、リズムと音楽があり、自然と生活があり、言霊がある。そこに人の持つ深い心情と経験が隠れているところに魅力があると思っていたのだが、なんと浅く見ていたのかと思い知らされる。

シュタイナーは、通常言われている視覚など五感覚以外に、生命感覚・運動感覚・平衡感覚・熱感覚・言語感覚・思考感覚・自我感覚をあげている。
たとえば、生命感覚で自分の体調の良し悪しを感知し、熱感覚で深い関心を持ち、ぬくもりをもって世界の中に溶け込み、言語感覚で他者の心魂の活動とその顕れを感知し、思考感覚で他者の思考の真実と虚偽を感知し、自我感覚で他者の個性や自然の霊性を感じる、といった具合だ。

人智学では自然界の背後に霊魂的実在を認め、俳句は、桜、月、蛙など自然の細部に永遠の瞬間を見出し、背後にある生命力を映し出そうとする。たとえば「もののあはれ」や「季語」の働きは、自然の中の霊的秩序を直感的に捉える行為と解釈できる。俳句の自然観照は、十二感覚論と親和性が強いように思う。

ちょっと試しに、諸感覚と俳句を紐づけてみた。全くの主観である。

生命感覚……炎天や 子は赤鬼の ごとく泣く (子規)

熱感覚………雪とけて 村いっぱいの 子どもかな (一茶)

自我感覚……分け入っても 分け入っても 青い山 (山頭火)

せっかくの味わい深い俳句を、つまらない感覚論に当てはめる愚を行ってしまったかもしれない。芸術は、解釈や分析をしてはならないものと、教わったのだが、ついやってしまった。