人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

「年をとるほど若くなる」とは、どういうことか?

誕生日を迎え、どう見ても「若い」とは言えない年齢になった。体は以前と比べて確実に衰えている。平均寿命の中ほどをとっくに過ぎているのだから、しかたなく思うが、やってくるものは、やってくる。諦めの気分のような感じももつが、その反面、何か新しいものが近づいているような予感もある。それが何なのか、まだはっきり言葉にできない。

たしかゲーテも同じころだったと思い、ゲーテが、年齢や老い・若さについて言っていたことを掘り返しているうちに、それに関する色々な人の言葉が次々に浮かんできた。ヘッセとニーチェ、そしてシュタイナーである。

四人とも不思議なことに、「時間の直線的進行イコール老い」ではなく、内的な成熟を通して若さや新しさが増すといった趣旨のことを述べている。ただし、若さと新しさの言葉には、カッコが必要かもしれない。それぞれの思想をもとにした視点でそう言っているからだ。

ゲーテは、晩年の詩や『ファウスト』後篇で、「人間は創造し続ける限り若い」という調子で、自らの存在を「永遠に若い生成のなかにある」と表現している。ゲーテにとって若さとは肉体のことではなく、新しいものへと開かれている心と魂がますます柔らかくなり、透明になっていく、という印象を受ける。素(す)になることで、創造のためのアイディアが降りてくる、と言った感じだろうか?

ヘッセは、『デミアン』『ガラス玉演戯』などで、成熟の道を「内なる青年との出会い」として描いている。晩年の随想や詩では、「本当の若さとは年齢ではなく、心が絶えず新しい誕生を経験していることだ」というようなことを繰り返し述べており、また、有名な詩の「階段」では、「どんな年齢でもその人生段階を喜んで超えていくとき、常に新しい始まりが訪れる」、「あらゆる始まりには魔力が宿っていて、私たちを守り、生きることを助けてくれる。」とも語っている。

「喜んで段階を超えていく」というのは、いくつになっても、つまづいてばかりいる私としては、なかなかできない境地に思えるが、なんだか励まされている言葉のようにも感じる。何歳になっても、その気になれば、新しいことを「始められる」と言われているような気分が起きてくる。

ニーチェの思想の中でこれに最も近いのは、「子ども」「青年」「老年」を精神の変容の段階として捉える考え方だ。たとえば『ツァラトゥストラはこう語った』の「三つの変身」で、精神はまず「ラクダ(重荷を背負う)→獅子(否定と自由の意志)→子ども(創造と新しい始まり)」と変わっていくと説いている。つまり、本当に成熟した精神は「子ども」へと戻っていく。ここでの子どもは、無邪気さ、創造力、新しい始まりの象徴とみることができ、これは「年をとるにつれて若くなる」という逆説的真理を表現していると言えそうだ。

ニーチェはまた、こんなことも言っている。「人は老いてこそ、もう一度、子どものように遊ぶことを学ぶ。」、「成熟した精神のしるしとは、子どもの真剣さを再び真剣に生きることができることである。」

「子どもの真剣さ」とは一体どのような心境のことだろう。ものすごい集中力と生命力で、ほかのことは全く考えず、蟻んこを見つめ続ける幼児のようなものだろうか。だとしたら、私にはもう失われてしまった力かもしれない。

シュタイナーは最も体系的に「年齢」を霊学的に捉えた人と思われる。人間は7年周期で変化するという発達論を唱え、中年以降は、精神の新しい力が芽生え、正しく生きれば「年をとるほど若返る」ようなことを言っていたと思う。

何をもって「正しく」というのか、という疑念が湧くが、おそらく自分の自我が物質のほうよりもだんだん精神(霊)のほうに向いているのか、ということを指しているように思える。高齢になってもまだ、物や金に執着している人がもしいたら、それをとやかく言うつもりは全くないが、なんだか悲しくなってくる。

シュタイナーの考えで言うと、誕生した時のことは、「受肉過程」といわれ、だんだん肉体が衰えていくときは、「離肉過程」と呼ばれる。受肉はよく聞く言葉だが、「離肉」はあまり聞かれない。肉体から自我(霊)がだんだん離れていくのだが、最後に離れ切ると、別の世界へ旅立つことになる。その思想は、人間の内なる生成は、死まで続く新しい誕生の連続であり、「若さ」を生物学的な年齢ではなく、精神の生成・再生の力として捉えているのが特徴といえる。

年齢を「自由」「孤独」「内面の成熟」を伴う贈り物と見なし、老いを否定するのではなく、むしろ新しい誕生としたヘッセの考え方に最も魅かれる。
年齢は、“素晴らしい贈り物”、こんな思いでこれからも生きていけたらどんなにいいだろう。