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この本は、芥川賞作家の又吉直樹さんと絵本作家のヨシタケシンスケさんによるコラボ作品で、カバーには、こんなことが謳われていた。
“たった1行のヒントから彼らは、「その本」を復元していった――”
“救ってくれたのは、本でした。”
“むかしむかし、村はずれにたっている空き家に、
いつからか、2人の男が住みつきました。
2人の男はある日、小さな看板を出しました。
バラバラになってしまった本や、
やぶれてしまった本でも、
特殊な技術で元に戻すというのです。
それどころか、ほんの1ページでも、1行だけでも
タイトルだけでも、
ちょっとした手がかりさえあれば
元の本の形に復元できる、というのです。
村人たちが「本の復元依頼シート」を
ポストに投函すると
本はどんどん復元されて――”
ストーリーにも引き付けられたが、中をパラパラとみて、大変ユニークな構成だったので、即買いし、あっという間に読破してしまった。何冊もの復元された本の内容が書かれており、そのとんでもなく想像力豊かな独創性に驚いたのだが、その中身はさておき、印象に残ったフレーズがいくつかあるので、そっちの方を紹介したい。
“「本が友達って感じ?」という言葉を思い返すと、たしかにその通りだなと思った。”
“ページをめくっていると、ふと、隣に(亡くなった)父がいるような気がするのです。”
“その本そのものが、お父さんだったのかもしれない。”
これらの言葉から、色々と連想し、思い出したことを書く。
ひとつは、小林秀雄が『様々なる意匠』の序文で書いていたことで、「文は人なりとは、文体と人格とが一致するという程度の意味ではない。人間の全存在が文に現われるということである。」というものだ。
つまり、文は「巧拙」や「技術」の問題ではなく、文章にはその人間の思考の癖や感受性と、それを超えた生き方全体が滲み出るということだ。文は、つまり本は、生きている人のような存在だとも言えるかもしれない。
『無常といふ事』でも同様のことを書いている。芭蕉の句を「自然のまま」と見なす人がいるが、実はそこに芭蕉の「全存在」が懸けられているのだ、と説いた。文章を「分析」するよりも、その奥に流れる「人間そのもの」を感じ取ろうとしたのだと思う。
もう一つ、自問したことがある。「本は、親友に代わりえるか?」という問いだ。
モンテーニュは、『随想録』で、書物を「孤独の最良の友」と呼んでいたようだが、『本でした』を読んでいて、直接の表現はしていないが、雰囲気として、孤独の友、という感情がじわじわ伝わってくる。読書は身近な友人以上に正直で深い交流になることがある。その「親友」は紙の束ではなく、本を通して現れる著者の魂といえそうだ。
考えてみると、友と本当に深く交流することは中々難しいような気もする。何年にもわたって、また、何時間も話し合っても、どこか表面にとどまってしまうことを、よく経験した。お酒が入ると、本音で言い合えることはあるが。
シュタイナーは、本を読むことは、他人の魂と深い交流を持つ手段であり、将来的には「本を介さずに魂と魂が直接交わる」時代が来ると言っている。
「未来の人類は、今日のように書物に頼る必要がなくなる。魂は魂と直接に語り合い、互いに深い内容を伝え合うことが可能になるだろう。」とも言っている。
人間の内的な感覚器官が成熟し、魂と魂が「言葉を介さずに」互いを理解し合えるようになる「テレパシー」と誤解されやすいが、シュタイナーはそれをもっと深い意味で捉え、思考や感情の核(霊的内容)が、そのまま相手に直接届くような交流だと考えていた。
未来のことは正直わからないが、そのような‘進化’ができる予感はある。もちろん、お酒抜きでだ。
ただし、現代においては本がまだ不可欠だと認めている。「人間はまだ直接的に魂と魂が交わるほど成熟していない。だからこそ書物は必要だ」と語っている。
この本の最後に、本とはどんなものだったか、をまとめている。本に対するいくつもの感謝の言葉、「何々してくれたもの」、それは、
本でした。
で結んでいる。