まったく初めて聞いた言葉―「涙活」について、探ってみた。涙活とは、意識的に感情を喚起し、「涙を流す」ことを通じて、ストレスや悩みを軽くしたり、心をリフレッシュさせたりする活動のことだそうだ。おもに「感動させる映像・朗読・音楽・過去の想い出」などを用いて、人が“泣ける状態”をつくり出すらしいが、他人に泣かせてもらって、何になるのだろうか?という素朴な疑問がわく。
「なみだ先生」と呼ばれる感涙療法士(!)の方が、この活動を推進しているそうだが、我慢していた悲しみ・怒り・不安などを解放することで、気持ちが軽くなることを目指しているようだ。「泣いた後に体調が良くなる感じがする」といった報告もされている。
やり方としては、悲劇的な物語や感動的な映画・ドキュメンタリーなど、泣ける要素を用意して涙を誘ったり、参加者同士で「泣いた映画・ドラマ」「最近泣いたエピソード」などを語り合ったりするそうだ。
泣くことで交感神経優位の緊張状態が落ち着き、副交感神経が働きやすくなり、これによってリラックス感が増す、ことが支持されていて、泣いた後に免疫グロブリンの活性が高まるなどの報告があり、身体の防御機構に良い影響を与える可能性が指摘されている。
一方で、リスクも指摘されており、過去のトラウマや深い悲しみを呼び起こし、かえって不安定になる可能性もあるため、ファシリテーターや安全な場が重要と言われている。
人智学の観点でも、泣くことは、抑圧された感情を動かし、硬化した心を柔らかくする作用を持つとされている。涙を流すことで、魂の感情層が浄化され、本来の存在に触れる契機となる。
しかし、自分の泣きのツボ、言い換えると共感ポイントは、自分でよく知っているのではなかろうか。それを他人にお膳立てしてもらわなくては、泣けなくなっているとしたら、これは、由々しき問題とみなければならない。涙が自己の感情に酔うだけで終わってしまっていたら、何らかの手助けは必要かもしれないが。「私ってかわいそう」、「感動した私って素敵」という所へ行ってしまうと、危ないかもしれない。
こんな風に考えていたら、「鬼の目にも涙」という諺を思い出した。人智学的にみると、このことわざは、どれほど堕落や執着の力に覆われても、人間(鬼)の本質には霊的核が残っており、その核は慈悲や共感に触れると涙というかたちで現れる、という真理を指していると解釈できる。
「冷酷な人が思わず涙する場面」は、想像することができる。涙は、その人の中の「人間であることの証し」であり、同時に霊的世界とのつながりがまだ絶たれていないしるしと言える。
人間の中の、硬直性・冷酷性・機械性を溶かす力、それが涙といえる。その涙のことを人智学では、“キリスト衝動”と言っている。人間はどれほど「鬼」と化しても、完全に救済の可能性を失わないという希望がある、と信じたい。