人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

“涙活”という言葉に驚いたこと

まったく初めて聞いた言葉―「涙活」について、探ってみた。涙活とは、意識的に感情を喚起し、「涙を流す」ことを通じて、ストレスや悩みを軽くしたり、心をリフレッシュさせたりする活動のことだそうだ。おもに「感動させる映像・朗読・音楽・過去の想い出」などを用いて、人が“泣ける状態”をつくり出すらしいが、他人に泣かせてもらって、何になるのだろうか?という素朴な疑問がわく。

「なみだ先生」と呼ばれる感涙療法士(!)の方が、この活動を推進しているそうだが、我慢していた悲しみ・怒り・不安などを解放することで、気持ちが軽くなることを目指しているようだ。「泣いた後に体調が良くなる感じがする」といった報告もされている。

やり方としては、悲劇的な物語や感動的な映画・ドキュメンタリーなど、泣ける要素を用意して涙を誘ったり、参加者同士で「泣いた映画・ドラマ」「最近泣いたエピソード」などを語り合ったりするそうだ。

泣くことで交感神経優位の緊張状態が落ち着き、副交感神経が働きやすくなり、これによってリラックス感が増す、ことが支持されていて、泣いた後に免疫グロブリンの活性が高まるなどの報告があり、身体の防御機構に良い影響を与える可能性が指摘されている。

一方で、リスクも指摘されており、過去のトラウマや深い悲しみを呼び起こし、かえって不安定になる可能性もあるため、ファシリテーターや安全な場が重要と言われている。

人智学の観点でも、泣くことは、抑圧された感情を動かし、硬化した心を柔らかくする作用を持つとされている。涙を流すことで、魂の感情層が浄化され、本来の存在に触れる契機となる。

しかし、自分の泣きのツボ、言い換えると共感ポイントは、自分でよく知っているのではなかろうか。それを他人にお膳立てしてもらわなくては、泣けなくなっているとしたら、これは、由々しき問題とみなければならない。涙が自己の感情に酔うだけで終わってしまっていたら、何らかの手助けは必要かもしれないが。「私ってかわいそう」、「感動した私って素敵」という所へ行ってしまうと、危ないかもしれない。

こんな風に考えていたら、「鬼の目にも涙」という諺を思い出した。人智学的にみると、このことわざは、どれほど堕落や執着の力に覆われても、人間(鬼)の本質には霊的核が残っており、その核は慈悲や共感に触れると涙というかたちで現れる、という真理を指していると解釈できる。

「冷酷な人が思わず涙する場面」は、想像することができる。涙は、その人の中の「人間であることの証し」であり、同時に霊的世界とのつながりがまだ絶たれていないしるしと言える。

人間の中の、硬直性・冷酷性・機械性を溶かす力、それが涙といえる。その涙のことを人智学では、“キリスト衝動”と言っている。人間はどれほど「鬼」と化しても、完全に救済の可能性を失わないという希望がある、と信じたい。

「魂の天ぷら」食べる秋彼岸

水木しげる先生の漫画に「魂の天ぷら」なるものがあったことを、ふと、思い出したのだが、これは秋分の頃における一つ目の意義に結びつくように思う。

それは、お米などの自然の実りという恩恵を感謝とともに受け取る時節であるとともに、内なる魂の力を滋養にできる季節の始まりでもある。自然からの「収穫」だけではなく、人間の学びや経験の「収穫」日でもある。つまり、魂の天ぷらのようだ。たまもの(賜物)の天ぷらともいえるかもしれない。

夏至から秋分にかけて、太陽の力(外へ拡張する生命力)が衰え、冬至に向かって、内なる力(霊的な集中)が強まる。秋分はその「ちょうど中間点」で、自然が外的な活動から内的成熟へと切り替わるタイミングとなる。

ここで、「収穫」以外のもう一つの意義に結びつくが、ヨーロッパでは、秋分の直後に 「ミカエル祭」 が祝われ、この祭りは、魂の中に芽生える恐れや疑念や欲望に対して、人間が勇気と自己統御をもって立ち向かう力を象徴している。

昼と夜が等しいこの時期に、日本では「彼岸=あちらの岸」に想いを馳せる。昼と夜の均衡は「魂の中道」の意味合いもある。仏教で言う「中道」や「彼岸」は、極端を離れて調和点に至る道でもある。自然のリズムの中で「均衡」が起こる時期に、魂が霊界に目を向けやすくなる、という点で、日本のお彼岸と人智学的視点は一致している。仏教的お彼岸では、先祖や霊的存在に祈りを捧げるが、人智学でも、年の特定の時期に霊界が近づくとされている。

人智学では、亡くなった魂は生者の思い・祈りを必要としている、とされるが、仏教でいう「回向」とよく似ている。お彼岸の「先祖供養」は、単なる習俗ではなく、霊界の存在と地上の人間との共同作業と解釈したい。生者が感謝と祈りを送ると、亡き人の魂の進化に助けとなるし、同時に、生者の魂も「死を思うことで生命の深みを知る」修行になる。

お彼岸は、生者と死者が互いに助け合い、魂の成長を促す行事と言えそうだ。お供えのおはぎがなんだか、魂に見えてきた。下げたら、おいしくいただきたいと思う。きっと栄養になるに違いない。

土星の衝を迎えて

惑星の衝 国立天文台

今は、土星が地球と太陽の間に位置し、最も明るく見える時期である。土星が地球から見て太陽とちょうど反対側になる瞬間のことで、衝の前後の時期、土星は、日の入りの頃に東の空から昇って真夜中に南中し、日の出の頃に西の空に沈む。

という説明は天文学で言われることで、土星の衝を精神科学はどのように解釈しているかを調べてみたので、記してみたい。とても、信じられないような内容かもしれないが。

一般に土星は、「制約」「秩序」「課題」「孤独」を象徴するとされる。精神的・霊的な成長の過程において、試練を通じて人を成熟させる惑星とも言われる。また「物質世界の限界」を示す惑星でもあり、魂が物質的現実に縛られる体験を通して学ぶことと結びついている。

土星の衝は地球に最も近く、観測しやすい時期なのだが、「最も近くに来る」ことによって、人が持つ課題や試練が最も明確になる時期となる。日常の制約や限界、孤独感を実感することで、精神的成熟の契機となる。衝の時は、土星の象徴する「カルマの課題」が顕在化するタイミングとして捉えられる。

個人的には、自己規律・忍耐・長期的視野の見直しが必要な時期といわれ、社会的には、構造や制度の限界が露わになることもある、とされる。衝は「顕在化」の象徴でもあるため、普段は気づかない課題や責任が浮き彫りになる、とも言われる。

土星の衝の時期には、自己のカルマや人生の制約を見つめ直すと、精神的な成熟や「魂の自由」に繋がるようだ。過去の出来事を客観的に振り返り、感謝と共に受け入れることで、前向きなエネルギーに変換する良い機会となる。

また土星の衝は課題や制約が顕在化するため、自己否定に陥りやすい時期だ。そこで、避けるべきことは、「自分はダメだ」「いつも失敗する」と思い込んだり、過去に囚われ、前向きな行動を放棄したりしがちになるので、意識していた方がよいとされる。

精神科学で言われることを紹介したまでのことだが、これらの認識は、秘儀参入を通じて得られた霊的直観や観察によるもので、自然科学的な証明はできない。信じても信じなくても全く自由だ。

勇気の養成法について

勇気論 内田 樹 光文社

内田樹氏の『勇気論』を読んで印象に残ったのは、スティーブ・ジョブスの発言の引用で、それは「最も重要なのはあなたの心と直感に従う勇気です。心と直感はあなたが本当は何になりたいのかをなぜか知っているからです。」という言葉だ。内田氏は、それを「物事を始める時に、まず周囲の共感や理解を求めてはならない」と言い換えて説明している。

なぜ、勇気が必要か?それは、周囲の人や社会・世間が、あるいは常識が、心と直感に従うことを許さないからだ、と強調している。許さないのは周りだけでなく、自分自身の内にある規制の声もまたそうではないかと思う。その声は、きっと教育によって「培われた」ものに違いない。いわば、いつも「ねばならない」と思う心だ。

『勇気論』では、そのためには“どうしたらいいか”というノウハウは直接的には書かれていない。そこが、さすが内田氏!と言えるところで、あとは自分で考えるしかない。

魂が逆境や恐れに直面しても、自らの意志を保つ力のことを勇気というとすれば、それは外から与えられるものではなく、日々の内面的訓練によってしか養えないと思われる。

「勇気を奮う、奮い立たせる」の表現のように、勇気は感情に深くかかわっているようにも思えるが、案外、思考を制御できるようになると、感情に呑まれにくくなり、困難な場面でも意志を持ち続けられるような気もする。

勇気は、最初から大きな行動で表れるものではなく、「ほんの一瞬の決意」や「気づき」から始まると思えれば、とりつきやすい。心に湧いたわずかな決意や思いを見逃さないことがポイントだ。ふつうは、その瞬間を逃してしまうことが多いが、「今日はできなかったけれど、気づいた」ということ自体が勇気の萌芽となりえる。気づいたことを覚えていればいい。

今日できなかった、でも明日もう一度試す。その「やり直しの意志」こそがすでに勇気の養成になっているのではなかろうか。

ひとりで勇気を起こせないとき、他者から勇気を「借りる」こともあっていいと思う。芸術、自然、祈り、敬愛する人物の言葉などは、魂に外から力を注いでくれる。好きな音楽を声に出して歌うのもいいし、詩を朗読するのでもいい。

身体を通して勇気を呼び覚ます方法もある。深く呼吸する、胸を開いて姿勢を正す、歩くテンポを落ち着ける、などだ。内田氏の場合は、合気道に違いない。

そのほか、勇気を養う小さなエクササイズには、こんなこともあるかもしれない。

小さな「逆らい」をやってみる/あえて普段と違うことをしてみる/いつも右手でしていることを左手でやってみる/通勤・通学の道を少し変えてみる/言いにくい一言を口に出す/「ごめんなさい」を素直に言う/ちょっとした自己主張をしてみる、など。

自分が今日恐れたこと・不安に思ったことを紙に書く、という方法もある。それを客観的に見て、「これは本当に現実の脅威か? それとも自分の心が作った影か?」と問いかける。

「普段なら避ける小さなこと」を一つやってみることはお勧めだ。知らない人に挨拶する、普段頼まない料理を注文する、意見を短く言ってみるなどだ。「小さい成功体験を重ねると、人は変わってくる」と普通よく言われることがここでも当てはまりそうだ。

一日中臆病さと戦う必要は全くない。「今日は5分だけ、恐れていることを試す」という姿勢で十分だ。あとの時間は、いつも通り「臆病」?に過ごせばいい。「限定された時間で向かう」ほうが現実的で、精神も安定する。

若いどんぐりをみて思うこと

若いどんぐり

お墓参りに行ったら、近くにクヌギらしき木があり、まだ青いどんぐりがなっているのを見つけた。こんな風になっているのか!と珍しい光景に心が何か動かされるように感じ、思ったことを書く。

どんぐりも葉っぱもそうだが、生命の個体は一つとして同じものがない。これは、人智学において非常に重要な意味をもっている。

「個体性の唯一無二性」を決定づけるのは、植物の場合、「生命のリズムや形態を個別に与える力」が働いているから、とみる。自然科学は、生命を「種」や「遺伝」によって理解しようするが、人智学では「種」はあくまで宇宙的な型であり、それが各個体において独自に表現されることこそが本質とされる。

シュタイナーはゲーテの自然観(形態学)の考えを受け継ぎ、すべての植物の葉は「原葉」という普遍的な原型から生まれ、展開・変容していくと考えた。

同じ「普遍的原型」が、位置・環境・リズムによって「唯一の葉」として姿をとる、という風に見たわけだ。葉は、根の近くでは鱗片葉(光合成を行わず、普通葉よりも著しく小形になった葉)、茎の中ほどでは大きな展開葉、花に近づくと萼や花弁へと変容する。葉の生命体は、形態形成の力を担う。

どの葉も「同じ樹種の型」を反映しながら、微細には二つとして同じものがないという両面を持つ。一枚一枚葉っぱの葉脈を比べてみれば、よくわかる。根気が必要だが。

葉が二つとして同じでないのは、太陽光の当たり方、水や土壌の状態、周囲の空気の動き、生長のリズムといった宇宙的・地上的な諸力の瞬間的な交差が常に異なるからだ。力の組み合わせは、ほぼ無限だ。宇宙の諸力(星の力)と地球的な諸力が、「ここでこの瞬間」で出会うとき、その一度きりの形が葉として現れる、ということだ。

ゲーテとシュタイナーの流れでは、芸術的直観で「生きて形が変容していく力」を感じ取ることが重要となる。

シュタイナー学校では、植物の観察は単なる「生物学の知識習得」ではなく、子どもの魂の成長と深く結びつけられている。どのような教程になっているかというと、

低学年(7〜9歳頃)
子どもは植物を「生きている全体」として捉え、葉・茎・花・根を「一つの生命の表現」として感じることを身につける。

中学年(10〜12歳頃)
葉の一枚一枚の違いや変化を観察し、「普遍と個別」の関係を直観的に理解していく。

高学年以降
ゲーテ的な形態学をもとに、自然科学的な考察と芸術的直観を結びつける。

こうしたプロセスを通して、子どもは「自然は生きて変容する力を持っている」という感覚を養うわけだ。

葉が二つとして同じでないことは、子ども一人ひとりの個性もまた唯一であることの象徴として扱われる。「この葉が、この枝、この光、この時間だからこそ生まれた形であるように」「あなたもまた、世界の中で一度しか現れない存在なのだ」という感覚を子どもの内部に育てようと努力する。

だから、植物の授業は、人間の唯一の個性を尊重する感覚を育てることにまでつなげることによってはじめて、意義あるものとなる。植物の学習は、人間学なのだ。

都会人には絶対にできないプログラム

ヨガやマインドフルネスや座禅など、瞑想によって心を鎮めることが今、ますます必要になっていると感じるが、生き抜くことに精いっぱいの人は、忙しさもあって、そういうことには見向きもしないと思われる。特に、精神の豊かさよりお金、と思う人はなおさらである。もちろん、地上物質界では、生きるためにお金が必要になる仕組みになっているので、お金は大切だ。

できそうもない(かもしれない)瞑想体験にどういうものがあるのかを、記してみたい。

・瞑想・意識集中の練習としては、静寂の中で「ゆっくり呼吸し、身体感覚や内面の意識の変化を観察する」ことで、精神の奥に触れる感覚を体験する。

・芸術・音楽・朗読…詩や音楽、オイリュトミーのような身体表現を通して、日常の感覚を超えた「別の次元」を体験する。その間だけは、仕事のことは忘れる。

・自然との対話…季節や天体のリズムに意識を合わせる、森や海で静かに過ごすなど、自然と一体になる感覚体験をする。まるで生き物のように季節を感じる、銀河系の星々を見つめる、などは最高だ。

・ゲーテの『ファウスト』や『バガヴァッド・ギーター』のように、魂の成長や不死の象徴をうたった文芸作品をじっくり読む。一行一行を瞑想しながら読むのがポイントだ。

・朝の意識的呼吸…目覚めたら深呼吸をしながら、「今日という一日を感じる」ことに集中する。

・感覚観察ノートをつける。食事、音、香り、風など五感で感じたことを簡単に記録する。

・森や川、庭など自然の中を歩きながら、呼吸と足の感覚に意識を集中する。また、気づいたこと、感情の変化、印象的な自然現象を記録。

・象徴瞑想…例えば、自分が一本の大木になったようにおもう樹木瞑想などがある。自分の手足(枝)には小鳥がとまり、さえずっているなどのイメージをつくる。

・感謝の習慣…一日の終わりに「今日の学び・気づき」を書く。

おそらく、やろうとは思わないことばかりになってしまったが、当たり前に実行している人もいる。ただし、一文にもならない。

日本仮面歴史館へ行って思ったこと

日本仮面歴史館

伊豆熱川に日本仮面歴史館という仮面だけの博物館があり、取材がてら見学に行ってきた。館長から色々お話を伺って、日本古来の祭りの意義や宗教的な意味合いなどを勉強してきた。この歴史館に展示されている1000を超える面は、すべて館長みずから創られたものである。その情熱に圧倒された。

数えきれないほどの面を見ながら、ここには人間の数えきれない感情や意志、思考だけでなく、無数の人格が表現されている、という印象を強く持った。人間ばかりではなく、神々や精霊や悪霊などの目に見えない存在もありありと感じられる。

それにしてもなぜ、“仮の面”という言い方をするのだろうか?調べてみると、仮面の意味について、多くの観点があることがわかった。

1 顔を覆って身元を隠すもの(匿名化、保護、防御)。
2 仮面は、役柄そのもの。人間は仮面を通じて神話的存在を現した。(古代ギリシアの演劇)
3 日本の能楽では、仮面(能面)は、感情を隠すのではなく、無限の表情を生む。仮面を通して「人間以上のもの(霊や神、亡霊)」が現れる。
4 シャーマニズムや祭祀では、仮面は「人間の顔を消し、霊的存在の容器となる」ための道具。
5 ユング心理学では、ペルソナは「社会に適応するための仮面」とされ、本質の自我(セルフ)とは区別される。社会的立場を背負った顔を自分自身だと思い込むと危険なことになる。
6 AIは、「人間の思考の影の仮面」であり、魂のない「模倣の器」。そこに「人間性をどう投影するか」で、その仮面の意味は変わる。

狂言師の野村万之丞さんが、かつて、こんなことを言っていた。
「仮面ほど正直なものはなく、人間の顔ほどうそつきなものはない」
「仮面ほど表情豊かなものはなく、人間の顔ほど無表情なものはない」

まさに、現代人を言い当てている言葉のように思える。

河合隼雄さんは、「仮面というのは結局、目に見えない真実というのを表現するもの。近代というのは目に見えるものを信頼しすぎている」とおっしゃっていた。人間の肉体としての顔は、直面とも言われるが、この肉のお面は、どれだけ仮面に迫れるのだろうか?

人智学では、「人間の顔はカルマ的に形成された仮面である」とも言われ、現世での顔は単なる物質ではなく、前世の行為や魂の傾向が物質的に凝固したもの、ととらえる。この意味で、すでに一種の「仮面」を身につけて生きていると言える。

「仮」というのは、人間が進化する途上の「仮」の姿、というような見方ができるように思う。よくも悪しくも、仮面から逃れることはできない。最終的には、人間の顔は、どんな面になるのだろうか。

祈るシベリアンハスキーと座禅する柴犬

祈り、瞑想する姿かたち

旅先のみやげ物売り場で、人間にしかできないことを動物がしているフィギュアをはじめて見た。思わず惹きつけられ、買い求めてしまった。

この姿を見ていると、単なるかわいさや奇抜さだけではなく、深い文化的・心理的な要素が働いていると思われる。

「祈る」とか「座禅する」のは自我を持った人間だけの行為だが、「もし動物も祈ったり瞑想したりすることができたら」という想像が働いてしまう。「やっぱり動物も魂を持っているのでは」 という共感を呼び起こすものもある。これは、期待だろうか、それとも妄想だろうか。

忙しくて祈れない、落ち着いて座禅できない現代人が、自分の代わりに犬や狐が「してくれている」ように感じられないだろうか?まるで「ぬいぐるみが自分の心を代弁してくれている」のと同じ心理かもしれない。

人智学では、動物は「人間の一側面の顕在化」と言われる。祈る犬は「忠実さプラス宗教心の一側面」、座禅するのは、静寂への希求といったように。つまり、動物の姿を借りて人間は自分自身の一部分を見直しているともいえる。人間が祈るときの「純粋な献身性」や、座禅するときの「直観的な静けさ」を、特定の動物が代わりに演じると、人は本来内面からしか見られない側面を外から見ることになる。これは、人間の自我が一瞬、動物に「貸し出された」ような光景ともいえる。

動物は「ペット」や「実験対象」として扱われがちだが、その一方で、心のどこかでは「動物にも人間と同じ魂が宿っている」と信じたいのではなかろうか?フィギュアたちは、その矛盾をユーモラスに和解させる象徴になっているような気がする。

このフィギュアを見ていると、人間と動物などの自然が霊的に和解する未来像を見せられている気がしてならない。

公園で見かけた石像―愛、孤独

石像ふたつ

少し遠くまで足を延ばし、散歩していたら、公園でこんな石像を見つけた。なんとも可愛らしく、写真をとっておいたのだが、二つの像を見ていて、『超訳 ニーチェの言葉』で有名な白取春彦さんの『愛するための哲学』を思い出し、色々と考えてしまった。像は像のままで素直に味わえばいいのだが、つい哲学してしまう癖がある。

この本に、「愛する人にキスをする意味」、という項目があり、こんな風に書かれている。

“キスという行為は、幼児がいろんなものを自分の口に運び、そのものの味や感触をじっくりと確かめ、そして認めることと同じでしょう。それは〈受容〉です。また、“相手を自分と同じだとみなし、相手の全部をそのままで受容する、これは愛の行動のひとつである”、とも言っている。

さらにキスの意味を広げて、“キスが世界の受容であるというのは、相手の唇というその一点から後ろ側へと世界が円錐状に広がっているからです。”とも言っている。

人智学では、この後ろ側の世界を、「人々が個的に存在しつつ、融合して存在している領域」、という表現をする。独立してかつ融合しているというのは、地上の物質界では明らかに矛盾だが、後ろ側の世界では不思議なことに両立する。それが心魂の特徴だ。唇という肉体は、外には出られず、個的にしか存在できない。

もう一つの石像だが、なんとも言えない味わいを感じる。幼児だろうか、それとも老賢人だろうか。生まれたばかりのヨーダだろうか?ひょっとしたら精霊かもしれない。瞑想にふけっているようにも見え、自らの内に閉じこもっているようにも見え、精神が自足しているようにも見える。だからきっと、孤独を生きているのだ。

『愛するための哲学』では、一人で丹念に生きる練習を勧めている。まず、自分をしっかり愛せなければ、他人を愛することなどできない、と説いている。「独りで生きる」と表現する場合は、lonelinessではなく、solitudeのことだ。

自由で充実していて、丹念に生きる練習として、二日間だけでも外に出ず一人で生活することを推奨している。その意義がたくさん書かれているが、自分を鎮めて、かつ解放してあげることがポイントのように読める。日ごろは、ほとんどの人は世間に従って生きている。この二日間は、自分に従って生きる。自分を取り戻せれば、本当に人を愛することができるようになるのではないだろうか?

人智学では、孤立感や虚無感に結びつく「閉ざされた孤独」ではなく、「世界と深くつながるための孤独」でなければならない、と強調している。世間と深くつながることと愛は、別物ではない。

高齢者の敬い方に違いがあるのはなぜ?

日本の「敬老の日」は、国家的に公的祝日として制定されているが、外国では「家族・コミュニティでの感謝」が中心で、国の祝日としている国はほとんどない。

この違いはどこから来るのだろうか?まず、外国などではどういう日があるのかを調べてみると、

国連では、10月1日を「国際高齢者デー」とし、高齢者の貢献に感謝し、社会参加や権利を保障することを目的としている。アメリカ合衆国では、祖父母の日が9月の第1日曜で、主に孫が祖父母に感謝を表す日である。中国では、重陽節(旧暦9月9日)があり、古くから「高齢者を敬う日」とされ、近年は「老人節」として高齢者を敬う意味を強調している。韓国では、敬老の日は5月第2日曜で、両親や高齢者を敬う日。ポーランドなどヨーロッパの一部では、「祖母の日」「祖父の日」が1月にそれぞれあり、家族単位でお祝いをする。

国家で公的に敬老の日を定めている日本は、老人を敬い、感謝する心からの気持ちがあまりないためと思われる。性格づけると、人間が持つべき当然の感情を「法」で決めていると言える。車でいえば、車優先社会になっているので、横断歩道などを法律によって整備しているのと同様だ。

外国などでも特定の日を定めているのだが、その背景には、老人への感謝の心が存在するような気がする。日本でも古来、年を重ねるということは、知恵と徳が宿る、という感覚があった。人間存在の最終段階を尊ぶ、という直感を持っていたように思う。決して、「お年寄りをねぎらう」のではなく、人間存在と宇宙の秩序を結びつけてとらえていた。

ちなみに人智学では、老人への敬いの感情に限らず、すべての存在への畏敬の念を大切にしている。大切にしているという意味は、畏敬の念を目的にしている、ということではなく、それを深い認識のための手段としている、という所にある。ごくごく単純に言えば、畏敬から帰依の心が生まれ、そして対象と一体になれる、というプロセスをふむ。対象と一体になることを「愛」と呼んでいる。

逆に、批判したりこき下ろしたり嘲笑ったりすると、自分だけの立場を囲い込み、魂は硬直化する、とみている。ただ、自我を確立していく途上では、通らなければならない「必要な」プロセスでもあるので、そういう態度を否定することはできない。人間の筋肉のように、一度思い切り力を入れて硬直化させると、ずっと柔らかくなれる、という事実と同じだ。

「さまよう」と「さすらう」について

「さまよえるオランダ人」 東京二期会

ワーグナーのオペラ「さまよえるオランダ人」を観てきた。このオペラのモチーフは、ごく短く言うと、「船長が神を冒涜し、永遠に海をさまよう呪いを受けるが、真実の愛によって救済される。」というものだが、人類の魂がたどってきた歴史的経緯をよく表していると思う。

オランダ人は「終わりなき放浪」を強いられているが、これは霊的に「自我が物質世界のなかで安住できず、真の意味での居場所を失っている」姿を象徴しているとみることができる。そして、近代の孤独な自我が「愛による救済」を待ち望む姿でもある。

オランダ人を載せた船は、どんな嵐でも沈まないが、港に入ることも、安らぐこともできない。世界の海を際限なく航行し、霧や嵐の中に幽霊船として現れる。注目したのは、この船長は財宝をたくさん持っている、という点だ。ものという財宝は有り余るほどあるのだが、魂は決して満たされない。これは、まさに現代人にも当てはまりそうだ。人間の肉体や魂が「存在してはいるが、真の意味での目的を見失った状態」を示しているからだ。

また船長は、「物質のなかに陥っている」のだが、これはどういう意味だろうか。シュタイナーはこう言っている。

「物質のなかに陥った者には、外的な人生が永遠に一様に繰り返されるのである。精神が上昇するのに対し、物質はいつも繰り返すという点で、物質的な見解は精神的な見解と区別される。精神が物質のとりこになる瞬間、精神は同じものの繰り返しから逃れられなくなる。さまよえるオランダ人は、そうなった。」

ただ、オペラを見ていて、この船長はなんだかかわいそうだな、という感を強くした。物資界に縛られてはいるが、それに苦しみ続け、救いを求める誠実さを感じたからだ。

最終的には、船長は「ゼンタ」という女性の自己犠牲的な愛によって救われる。人智学でも、「未来の人類の発展は、愛の力によってのみ成し遂げられる」と繰り返し述べている。エンディングで、船長と女性が一緒に立ち去っていく姿が印象的だった。

シュタイナーは述べている。
「あらゆる神秘主義において、高次のものは女性として表示される。ゲーテの神秘の合唱、“永遠に女性的なものが私たちを高みに引き上げる”という美しい言葉に秘められているものもそうである。」
なぜ、高次のものは、女性として現れるのかは、いくら考えてもわからない。

「さまよう」オランダ人を考えてきたが、「さまよう」の語源は「様」+「よふ(四方を行き来する)」とされる。本来は「行く先を失ってあちこち動く」「迷って歩き回る」という意味だが、現代では「道に迷ってさまよう」「心がさまよう」といった、迷い・混乱のニュアンスが強い。

人智学的にとらえれば、人間の自我が本来の霊的中心を見失って、欲望の流れに翻弄されるとき、魂は「さまよう」と表現できる。迷い・不安・宙吊りのニュアンスがあり、霊的にも「地上と霊界のはざまで定まらない魂」や「死後の方向を見失った魂」にも通じる。まさに「さまよう幽霊」だ。

一方、「さすらう」のほうは、「放浪する」「漂泊する」イメージがある。「さすらう吟遊詩人」や「琵琶法師」のように、運命に従って旅を続けるような、叙情的・ロマン的な響きがある。宿命を背負って放浪する魂の道を探りながら、一人歩く姿が目に浮かぶ。

人智学の霊的進化観で見れば、魂は転生を繰り返し、各地・各文化を通じて学ぶ。その意味で「さすらう」は、カルマを生きるために自ら選び取った放浪ともいえる。もちろん、人類全体の進化のために「遍歴」を重ねるのだ。

ここでひとつ思い出したのが、さすら姫のことである。
さすら姫は、神道の大祓詞(おおはらえのことば)に登場する、速佐須良比売神(はやさすらひめのかみ)のことで、罪や穢けがれを根の国へ持って行って消し去ると言われている。

「さすら姫」は、行き場を失い、放浪を余儀なくされた女性霊である姫神で、その特徴は、災厄をももたらすが、正しく祀れば福をもたらし、里と外・現世と異界など境界性を持つ存在である。

さすら姫の、女性性(受容・感受の側面)を持ちながら定住せず世界を渡り歩く姿は、人間の魂がカルマの旅を経て成長する象徴と読める。時代・文化・土地を「さすらい」ながら成熟していく存在だ。その「さすらい」は必ずしも迷いではなく、カルマに導かれた巡礼の道そのものだ。それゆえ文学や芸能において「さすら姫」は魅惑的で悲劇的に描かれる。

現代人もまた、グローバル化やSNS空間の中で、どこにも完全に属せない感覚を強く持っているのではなかろうか。それは「不安」でもあるけれど、同時に「新しい感受性を開く条件」でもある。さすら姫の「境界性」と同じく、安定した枠組みに収まらないが、そこからしか生まれない、新しい文化的・霊的な感性が芽生える可能性を持っているといえる。

「さすらう」ことによって、新しい美や霊感を媒介する使命を持つことができる。一か所に居続けている人は、幽霊船の船長になってしまうかもしれない。

明日から、ちょっとさすらいの旅に出かける。一泊二日だが…。

ばいきんまん と ダース・ベイダー と ねずみ男

三者とも「悪役」「ずる賢さ」「人間の影」を体現していて、似ているなと思って考えてみたのだが、そのあり方はやはり、かなり違うように感じる。

ばいきんまんは、根っからの悪ではなく、失敗しても憎めず、どこかユーモラスで、人間の中の「欲望」「わがまま」を象徴している。しかし、善を引き立て、世界の均衡を作るという所が、物語に欠かせない存在としている。

ダース・ベイダーは、壮大な神話的物語における「堕落した英雄」と言え、かつては正義の騎士だったが、力への欲望と恐怖で暗黒面に落ちる。それが象徴しているものは、「力に溺れた自我」であり、「恐怖から生まれる暴力」だ。ただし、最後には自己犠牲を通じて救済に至る「贖罪の道」をたどる。

ねずみ男は、鬼太郎の友人でもあり裏切り者でもある「トリックスター」とみることができる。欲に弱く、裏切るが、完全に敵ではない。鬼太郎の正義と妖怪世界の現実との間をつなぐことで、滑稽さを与え、物語に奥行きを持たせている。

ばいきんまんは、子ども向けの言わば「純粋で愛嬌のある悪」。悪を演じることで善を際立たせる役割をもつ。物質的な欲や破壊を通じて人を鍛えるのは、重要な使命とさえいえる。

ダース・ベイダーは、人間の恐怖と力の欲望を体現している。理想や力に憧れて堕落するが、最後に光に戻る。人間誰もが持っていると思われる運命がたどる道を、目に見えるものとしてくれている。

ねずみ男は、コメディとリアリズムを担う「ずるいけど憎めない中間存在」で、人間臭い弱さを映す鏡そのものと言える。善と悪のあいだを行き来するところなど、人間の内面と外面両方の特性をよく表している。

シュタイナーは、「悪」の力が人間の内奥に内在するとき、バランスが保たれ、むしろ人格形成や文化創造の動因となる、と言っている。「外在化」とは、悪の力を自覚的に統御せず、社会制度や外的現象として放置することを意味する。個人の内面で消化されず、外界に「権力・戦争・技術の暴走・経済至上主義」などとして現れることを危険視していた。

私の中には、この三者がともに内在しているように思う。外在するようになると、本物の「悪人」になってしまうかもしれない。自分の中の「悪」を意識していればいいのだが、それを外にぶつけるとトンデモない悲劇となりそうな気がする。たまにだが、吹き出しかけることがある。