人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

老婆の姿をした神について

ギリシア神話などに出てくる“変身”について、講座で勉強しているのだが、今日は、女神アテナとアラクネという織物職人の物語を読んだ。アラクネは、ギリシア語で蜘蛛という意味である。

アラクネの織物の腕前は素晴らしかったのだが、それにうぬぼれてしまった。技術を授けたのは、女神アテナだった。アテナは、老婆に姿を変えてアラクネのもとにやってきて、アラクネの傲慢さを指摘したのだが、アラクネは老婆を馬鹿にし、聞く耳を持たなかった。

以降、途中は省略するが、最後にアラクネは糸を出す腹を持ち、機織りに精を出す蜘蛛になった、という物語だ。

傲慢さによって動物に変身してしまうという話は、神話に限らずたいへん多いが、その変身譚よりも、私は「老婆」に意識が向いてしまった。

精神界を認識でき、その中を旅するようになると、よく“老婆”に出会うと言われている。女神が老婆の姿で現れて、旅人や英雄の思いやり・勇気・徳を試すのだそうだ。老婆を助けると祝福され、無視や侮辱をすると呪いを受ける。

老婆は、この世とあの世の境界に現れるともいう。仏教でいう奪衣婆もそうかもしれない。

人智学では、神話に登場する「乞食や老婆の姿をした神」は、人間の道徳的力量を試す働きを持つ、と言われる。老婆を見て「外見に惑わされず、霊的実在を感じられるか」を試されるのだ。

私は、この世で老婆を見た時に、「みすぼらしく、先の短い、何の働きもしない、衰えて、弱く、醜くく」といった印象を抱いてしまう。それは私が人間の外見だけ、肉体だけしか見ていないからだ。

人智学が繰り返し強調するのは、「感覚的に見えるものと霊的実在とは一致しない」ということだ。

神話や伝説で「老婆が助けを求める場面」がよく出てくる。そこで問われているのは、「役に立たなそうに見える存在に手を差し伸べられるか?醜さや衰えを軽蔑せず、尊厳を見出せるか?」ということだ。魂が即座に「そこに霊的価値がある」と感じ取れる力があるかどうかを試されている。

神や天使が人間に試練を与えるとき、しばしばみすぼらしい姿で現れる。英雄譚では、老婆を助けた人物がのちに祝福を受けるのは、「彼が外見を超えて神的な本質を認識した」ことの報いである。その逆もあり、素晴らしく若く美しく輝く存在が、闇の霊魂だったりするので、本当に、見極めるのが困難な世界だ。

人智学の実践課題に「すべての存在に内在する神的要素を見ようと努める」練習がある。感覚的に「不要・醜い・弱い」と見える存在を前にしても、その背後に霊的な必然性・尊さを感じ取る訓練だ。

その課題の、私の点数はまだ20点くらいだと思う…。