人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

公園で見かけた石像―愛、孤独

石像ふたつ

少し遠くまで足を延ばし、散歩していたら、公園でこんな石像を見つけた。なんとも可愛らしく、写真をとっておいたのだが、二つの像を見ていて、『超訳 ニーチェの言葉』で有名な白取春彦さんの『愛するための哲学』を思い出し、色々と考えてしまった。像は像のままで素直に味わえばいいのだが、つい哲学してしまう癖がある。

この本に、「愛する人にキスをする意味」、という項目があり、こんな風に書かれている。

“キスという行為は、幼児がいろんなものを自分の口に運び、そのものの味や感触をじっくりと確かめ、そして認めることと同じでしょう。それは〈受容〉です。また、“相手を自分と同じだとみなし、相手の全部をそのままで受容する、これは愛の行動のひとつである”、とも言っている。

さらにキスの意味を広げて、“キスが世界の受容であるというのは、相手の唇というその一点から後ろ側へと世界が円錐状に広がっているからです。”とも言っている。

人智学では、この後ろ側の世界を、「人々が個的に存在しつつ、融合して存在している領域」、という表現をする。独立してかつ融合しているというのは、地上の物質界では明らかに矛盾だが、後ろ側の世界では不思議なことに両立する。それが心魂の特徴だ。唇という肉体は、外には出られず、個的にしか存在できない。

もう一つの石像だが、なんとも言えない味わいを感じる。幼児だろうか、それとも老賢人だろうか。生まれたばかりのヨーダだろうか?ひょっとしたら精霊かもしれない。瞑想にふけっているようにも見え、自らの内に閉じこもっているようにも見え、精神が自足しているようにも見える。だからきっと、孤独を生きているのだ。

『愛するための哲学』では、一人で丹念に生きる練習を勧めている。まず、自分をしっかり愛せなければ、他人を愛することなどできない、と説いている。「独りで生きる」と表現する場合は、lonelinessではなく、solitudeのことだ。

自由で充実していて、丹念に生きる練習として、二日間だけでも外に出ず一人で生活することを推奨している。その意義がたくさん書かれているが、自分を鎮めて、かつ解放してあげることがポイントのように読める。日ごろは、ほとんどの人は世間に従って生きている。この二日間は、自分に従って生きる。自分を取り戻せれば、本当に人を愛することができるようになるのではないだろうか?

人智学では、孤立感や虚無感に結びつく「閉ざされた孤独」ではなく、「世界と深くつながるための孤独」でなければならない、と強調している。世間と深くつながることと愛は、別物ではない。