人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

祈るシベリアンハスキーと座禅する柴犬

祈り、瞑想する姿かたち

旅先のみやげ物売り場で、人間にしかできないことを動物がしているフィギュアをはじめて見た。思わず惹きつけられ、買い求めてしまった。

この姿を見ていると、単なるかわいさや奇抜さだけではなく、深い文化的・心理的な要素が働いていると思われる。

「祈る」とか「座禅する」のは自我を持った人間だけの行為だが、「もし動物も祈ったり瞑想したりすることができたら」という想像が働いてしまう。「やっぱり動物も魂を持っているのでは」 という共感を呼び起こすものもある。これは、期待だろうか、それとも妄想だろうか。

忙しくて祈れない、落ち着いて座禅できない現代人が、自分の代わりに犬や狐が「してくれている」ように感じられないだろうか?まるで「ぬいぐるみが自分の心を代弁してくれている」のと同じ心理かもしれない。

人智学では、動物は「人間の一側面の顕在化」と言われる。祈る犬は「忠実さプラス宗教心の一側面」、座禅するのは、静寂への希求といったように。つまり、動物の姿を借りて人間は自分自身の一部分を見直しているともいえる。人間が祈るときの「純粋な献身性」や、座禅するときの「直観的な静けさ」を、特定の動物が代わりに演じると、人は本来内面からしか見られない側面を外から見ることになる。これは、人間の自我が一瞬、動物に「貸し出された」ような光景ともいえる。

動物は「ペット」や「実験対象」として扱われがちだが、その一方で、心のどこかでは「動物にも人間と同じ魂が宿っている」と信じたいのではなかろうか?フィギュアたちは、その矛盾をユーモラスに和解させる象徴になっているような気がする。

このフィギュアを見ていると、人間と動物などの自然が霊的に和解する未来像を見せられている気がしてならない。