人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

ばいきんまん と ダース・ベイダー と ねずみ男

三者とも「悪役」「ずる賢さ」「人間の影」を体現していて、似ているなと思って考えてみたのだが、そのあり方はやはり、かなり違うように感じる。

ばいきんまんは、根っからの悪ではなく、失敗しても憎めず、どこかユーモラスで、人間の中の「欲望」「わがまま」を象徴している。しかし、善を引き立て、世界の均衡を作るという所が、物語に欠かせない存在としている。

ダース・ベイダーは、壮大な神話的物語における「堕落した英雄」と言え、かつては正義の騎士だったが、力への欲望と恐怖で暗黒面に落ちる。それが象徴しているものは、「力に溺れた自我」であり、「恐怖から生まれる暴力」だ。ただし、最後には自己犠牲を通じて救済に至る「贖罪の道」をたどる。

ねずみ男は、鬼太郎の友人でもあり裏切り者でもある「トリックスター」とみることができる。欲に弱く、裏切るが、完全に敵ではない。鬼太郎の正義と妖怪世界の現実との間をつなぐことで、滑稽さを与え、物語に奥行きを持たせている。

ばいきんまんは、子ども向けの言わば「純粋で愛嬌のある悪」。悪を演じることで善を際立たせる役割をもつ。物質的な欲や破壊を通じて人を鍛えるのは、重要な使命とさえいえる。

ダース・ベイダーは、人間の恐怖と力の欲望を体現している。理想や力に憧れて堕落するが、最後に光に戻る。人間誰もが持っていると思われる運命がたどる道を、目に見えるものとしてくれている。

ねずみ男は、コメディとリアリズムを担う「ずるいけど憎めない中間存在」で、人間臭い弱さを映す鏡そのものと言える。善と悪のあいだを行き来するところなど、人間の内面と外面両方の特性をよく表している。

シュタイナーは、「悪」の力が人間の内奥に内在するとき、バランスが保たれ、むしろ人格形成や文化創造の動因となる、と言っている。「外在化」とは、悪の力を自覚的に統御せず、社会制度や外的現象として放置することを意味する。個人の内面で消化されず、外界に「権力・戦争・技術の暴走・経済至上主義」などとして現れることを危険視していた。

私の中には、この三者がともに内在しているように思う。外在するようになると、本物の「悪人」になってしまうかもしれない。自分の中の「悪」を意識していればいいのだが、それを外にぶつけるとトンデモない悲劇となりそうな気がする。たまにだが、吹き出しかけることがある。