梅雨の時期は、なぜか気分がふさぐ。どうも理由がわからない。万全の健康というわけでもないが、特別重い病気でもない。仕事は困難を極めているが、充実感はある。家族との関係も良好だ。それなのに、なんでだろう。
気晴らしに、自分にクイズを立ててみた。答えは、こんなところでどうだろうか。
水たまりに映る曇り空
雨の匂い
道に雨粒が打ち付けて描く波紋
道路わきに生きている苔の瑞々しさ
傘に隠れている人の表情
頭皮にある冷たさの感覚…(降り始めに敏感…)
ガラス越しに見るぼんやりした風景
自分の内側への意識が明敏になること
心理的には、最後のものが、とても響いているように思う。ひとり感とか喪失感、忘れていた古い記憶など、晴れの日には意識しないことが次々と頭をよぎることが多くなる。普段は忙しさでごまかしている内面が姿を現すから気分が沈むのかもしれない。そのような「内面」とは、そうそう明るいものではなさそうだ。解決していない悩みとか将来への不安や満たされない願望などだとすれば、それと出会うことは快適とはいえない。
晴れの日には見たくなかった自分自身も、雨の日には見えてくる。それが雨の、少し怖く、少しありがたいところなのかもしれない。
学生の頃、勉強したフランスの詩があった。ポール・ヴェルレーヌの「巷に雨の降るごとく」だ。
Il pleure dans mon coeur Comme il pleut sur la ville.
(わが心に涙降る 都に雨の降るごとく)
これを今思い出すと、すごくよく梅雨の時の心情をあらわしているように思えてくる。理由の分からない哀しみを雨で象徴している。
雨が降っている時間は、「魂がもっともよく聞こえる時間」と言い換えられそうだ。だから雨は、「内面を見るための、そして立ち止まるための気象現象」といえるのかもしれない。
ただ、退屈や空虚や物悲しさとして感じられるものの中に、新しい問いやヒントが眠っている可能性はある。
種田山頭火は、「雨ふるふるさとははだしで歩く」と詠んだ。自分は、裸足になれるだろうか。