
夕刊の一面の記事に引き込まれてしまった。“難病の女性「負け組の星」に境遇重ね”という見出しだ。車いす生活を送るこの女性は、千葉県の牧場で余生を過ごすハルウララを応援する会に入り、心の触れ合いをもったそうだ。続けた記事には、「午年の幕開けを控えた25年末、感謝を込めた歌声を天国に届けた」、とある。
よく知られているが、ハルウララは高知競馬で、走っても走っても勝てない競走馬ということで有名になった。デビュー以来、113連敗した牝馬だ。
特に女性の経験の記事に感心した。「ニンジンを与えても愛嬌を振りまかず、食べ終えるとさっと走り去った。レースを走る運命に屈した様子はなく、私は私よ、と全身で示していた。」という表現だ。
昨年9月にハルウララは天国に旅立った。彼女は、すべての馬に捧げるといって、ライブハウスで歌ったそうだ。
それだけの一見単純な記事なのだが、何か深いものを感じた。これは何なのだろう?
「馬は“静かな人”にだけ心を許す」という仮説で考えてみた。この仮説は、理論で出したものでも、何かを参照したりしたものでもない。私の経験から出たものだ。子供のころ、叔母さんの実家に泊まった時のこと、その家には、厩があった。初めての馬との対面の時、あまりの目の大きさに恐怖を覚えた。柳田国男の世界だ。
馬は、極端に敏感な神経を持っている。筋肉の微細な緊張、呼吸の浅さと速さ、心拍の乱れ、視線の揺れ、それらをすぐに察知する。人間が「静かにしよう」と思っているだけでは、馬には通用しない。外側の沈黙より、内心の騒音を馬は読んでいる。
馬にとっての静けさとは、目的を押しつけたりせず、また自分を良く見せようともしないし、支配しようともしない人の内面の様子のことのように思える。馬は、まるで神のようだ。馬は見ている。「この人は、何をしようとしているか」、「この人は、自分をどう扱うつもりか」、「この人は、世界をどう見ているか」という風に。
馬は人間の“魂の姿勢”を見抜く教師と言える。立てた仮説は、裏を返すと、「なぜ人は、静かであることをこんなにも難しくしたのか」と表せる。人間の内面の騒がしさは、中々変わらない。
それにしてもハルウララは、なぜこんなにも人気だったのだろう?
勝てなくてかわいそうだったから、だろうか?
人が自分の魂をハルウララに投影したからではないのか。人々の心のどこかにある、「頑張っても、勝てないことはある」、「正しく生きても、報われないことはある」という心情だ。ハルウララはそのつらさを、否定も美化もせず、ただ走るという生き方で見せた存在のような気がする。
ハルウララは、ただ、走って、出て、今日も生きた。それだけだ。人間のように、意味づけたり、自己否定したり、比較したりしない。だから彼女は、哀れではなく 悲壮でもなく、どこか明るかった。この、意味を背負わされていない姿が、人間の心を強く打った。そんな感じがする。結果を出さなくても拍手されていいという、禁じられていた感情を解放したからのように思える。
馬は言い訳をしない。だから人間は、自分の言い訳を彼女に重ねずに済んだともいえる。彼女は真剣に全力で走ったのだ。無心にと言ってもいい。だから、「私は私よ」なのだ。天国ではハルウララはきっと、神馬と言われているに違いない。そんな祈りを彼女は拒まないと思う。