人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

こどものあいことば

あるお寺の境内を歩いていたら、「子供の合言葉」という題で、こんな文句の看板を見かけた。一部分だけ書き留めた。

ひとの とりえを そだてよう
じぶんの とりえを ささげよう
とりえ とりえが むすばれて
このよは たのしい ふえせかい

(「ふえ」とは不壊のことだと思われる。)

この詩を読んですぐに、金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」を思い出したのだが、現代世界の最大の難題と思われる「多様性を認めない考え方」は、どこから来るのかを考えてしまった。

心理学的には、人間は本来、「自分とは何か」が確立していないときに、異質なものに強い不安を覚え、“違い”とは自分の存在が脅かされるもの、という恐れと「同じであることは安心である」、という同一性の防衛機能が働いている、と言われる。
「多様性を拒む人」は、実のところ「自分の内なる多様性」を受け入れられていない状態にある、といえる。内なる多様性とは、たとえば自己の中にある矛盾や影や未知の部分のようなことだ。

社会的なレベルでみると、統一・秩序・明確な序列を保つことに価値を置く体制ほど、多様性は混乱であり危険と見なす。「秩序への愛」が「生命への恐れ」にすり替わっている場合が多いような気がする。これが極端になると、某大国のトップのような人物たちが現れる。大国でなくてもそうかもしれない。

哲学的に見ると、人間は「多様な現象世界」を「堕落」や「迷い」と見なし、「純粋な一性」へ戻りたがる傾向を持つ。現代では、「一は多に現れ、多は一を映す」という両義性の理解こそが求められているはずなのだが、なぜそううまくはいかないのだろう?

人智学的観点からいうと、「固定・明確化・形式化」を好み、流動する生命や霊的な個性の多様性を「危険」と見なす存在がいる、という立場だ。この力が強まると、人間は他者を「カテゴリー」としてしか見られず、魂の個性を感じ取る能力を失っていく。

多様性を本当に認めるとは、「他者を許す」ことではなく、「他者のうちに自分の精神的可能性を見出す」ことだと思うのだが、どうだろう。そのように考えてみると、「他者を受け入れるとは、実際には“何を”受け入れることなのか?」という問いがたつ。

一般的に言われる「多様性を受け入れる」は、意見・文化・性格など外面的な差異を尊重することを指すが、これは本当の受容の「入口」にすぎない。この段階では、「あなたはあなた、私は私」という線がまだ引かれており、他者はあくまで“自分とは別の存在”として扱われている。

もう一歩深まると、他者の違いの背後にある「痛み」や「不安」が見えてくる。意見の違いの奥には、各人が持つ恐れや傷や欠落が潜んでいる。この段階での受容とは、他者の意見や行動を正当化することではなく、「その痛みがそう言わせている」という直観を持つことだ。

さらに深く進むと、他者とは「永遠に理解しきれない存在」であることを認める地点に至る。いわば、「理解できないまま存在を許すこと」だ。受け入れるとは「相手の謎を、謎のまま愛する」ことといえる。

シュタイナーの観点から言えば、真の意味で他者を受け入れるとは、「相手のうちに自分の精神の一側面を見出すこと」である。「他者の中に神的な核を見ることができるとき、人は愛の本質を知る。」とも言っている。

他者とは単なる外界の存在ではなく、自我の未発見の部分を映す鏡だ。受容とは、外界に散らばる“自分の魂の断片”を回収していく精神的行為に他ならない。

「異なるもの同士が出会い、新しい世界が生まれる」ことを信じたいが、まだまだ時間がかかるような気がする。