人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

頭髪の日にもの思う

10月20日は、頭髪の日だそうである。あたまの薄さが気にかかる今日この頃、それについて人智学的に考えてみた。

身体的考察ではなく、髪が失われる現象をどう意味づけるか、という問いによって、精神的進化と個の使命を考えてみたい。髪の有無を通して、精神的エネルギーがどのように働いているかという象徴的な視点でだ。

人間の頭部は、「宇宙の叡智が最も強く働く領域」と見られる。髪はその叡智をやわらかく媒介するアンテナのようなものであり、髪があることで、宇宙の光りの力や星の力が穏やかに頭部に受け取られる。したがって、髪が失われるということは、単に「抜ける」のではなく、「媒介を介さずに、より直接的に宇宙の力を受けるようになる」と考えられる。

はっきりした言い方をすれば、禿とは、霊的な受容のかたちが変わったというサインなのだ…。

髪がある状態では、人間の霊的力は外へと放射されやすく、感受性豊かで直感力もある柔軟な思考が生まれやすい。一方で髪が薄くなる、あるいは失われると、そのエネルギーが外に散らずに内的に凝縮される傾向がある。これは、「外界への受容より、内界での熟成が求められる段階」に入ったことを意味する。魂の働きがより内的・意志的な領域へと重心を移す過程ともいえる。

ところで、世界の多くの宗教や修行者の伝統では、頭を剃る・覆いをとるという行為が、神聖な献身や内省の象徴になっている。仏教の出家では、髪を剃り、煩悩との関係を断つ。修道士の頭頂の丸刈りは、天への開放。古代の預言者は、髪を切ることで霊の声に直接耳を澄ました。

髪を「宇宙との感受器官」と見るなら、禿はその器官が内的に組み込まれた形になったということで、宇宙とのつながりを髪という物質的形態ではなく、意識そのものの中で生きる段階に達した証拠と思える。

シュタイナー的に言えば、禿の人にはしばしば、内的沈思、洞察、集中力、精神的な実践・意志の力、外見よりも内的真実を求める傾向などが強く現れるとされる。

髪を通して受けていた光を、
いま私は、内にともす。
髪のない頭は、
もはや外から照らされるのではなく、
自らが灯台となる。

のような感じだろうか?まさに、自ら光るようになっている。

今私は、若いころのふさふさの写真をながめている。もう、あのころには戻れない。育毛剤を使うのはやめようと思っている…。