夕刊エンタメという新聞のコーナーで、「ゲゲゲの鬼太郎2025」が、明治座で上演されることを知った。ねずみ男の声優をしている大塚明夫さんが、自ら出演されるという。
私は、水木しげる全集を愛読する根っからのファンなので、ぜひ見に行こうと思っているのだが、この記事の中で大塚明夫さんは、ねずみ男のことをこうおっしゃっている。
「どこにいってもつまはじき。誰にも頼らず、何に対しても責任を負わない。こんなに自由で、こんなに孤独な存在があるだろうか」
“自由で孤独”、今のところ、これは見方によれば最高の生き方だと思う。ヘルマン・ヘッセの『わがままこそ最高の美徳』に書いてあることと同じような考え方だ。ヘッセは、この書の巻頭でこう言っている。
「誰にとっても、個性を発展させ充実させるためには、自分の個性をできるかぎり完全に表現する以外に方法はありません。〈汝自身であれ〉という言葉は、少なくとも若い人たちにとっては、理想とすべき法則です。(中略) どれだけたくさんの危険をひとりの人が引き受けられるかに関しては、まったく客観的な尺度はありません。」
また、ヘッセは、人生に必要なものとして、勇気とわがまま以外にもう一つ、「忍耐」だと言っています。
ただ、ねずみ男は、半分しか人間ではない。そこが水木先生の独創性だ。ねずみ男は確かに自由だが、完全な孤独ではない。臆病で、かつ、耐えることなど知らない。
人智学では、人間が善悪を知った結果、自由の可能性が生じた、とされ、悪に陥る可能性があることによって、自由(と愛)が得られる、という風に認識する。
ひょっとしたら、ねずみ男は、人間のひとつの進化形かもしれないとさえ思える。哲学者は、「人間は常に自由に選ばねばならず、だからこそ孤独である」とか「他者と切り離された孤独のなかで自由を取り戻す」などと言い、「社会の期待や他人の評価に縛られている限り、その「自由」は見せかけ」だと言われる。
こんな難しい議論を飛び越えたところに、ねずみ男はいる。ねずみ男は、孤独を恐れず、それを受け入れる一種の強さを持っているように見える。
哲学でも社会学でも、最後は「但し、責任を持たねば」という条件が付きまとう。まったく正しいことだと思うが、だからこそ、ねずみ男は「責任を持たない」という点が最大の魅力のように見える。現代ではどんな立場であれ、本当に責任をとる人は誰もいないのだから。