人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

アンパンマンから自己犠牲の三つの側面を知る

作 やなせたかし フレーベル館

アンパンマンの「顔を分け与えて他者を生かす」という自己犠牲の精神は、古典から現代に至るまで繰り返し描かれてきたテーマだ。

自身を糧として他者を生かすというモチーフは、キリストの「パンと葡萄酒」、お釈迦様の前世譚の「捨身飼虎」、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』、『風の谷のナウシカ』など多く思い当たるが、共通点は、自己を犠牲にすること自体が目的なのではなく、他者を生かし、共同体や同胞を支えるための手段であるように思える。

アンパンマンが自分の顔、つまり、自己存在の象徴をちぎって人に与える行為は、「自我を単なる自己保存に使わず、愛の力として差し出すこと」のイメージと重なる。アンパンマンは顔を与えても死なず、ジャムおじさんにより復活する。これは「犠牲の後に、一種の更新がある」キリスト衝動と同じだ。

自分の顔のパンは、生命力の象徴であり、それをかじらせるということは、その生命力を差し出す行為とみることができる。それによって他者の生命力が養われ、共同体が保たれる。

シュタイナーは、「陶酔のための犠牲」や、「強制的な犠牲」と区別して、「自由意志からの愛の犠牲」を霊的進化の核心と見ていた。それは悲劇的な自己消尽ではなく、愛を通して再生と新しい生命を生み出す行為といえる。

「陶酔のための犠牲」の特徴は、高揚・美化された「自己消尽」、殉教や激情的な献身に見られることが多い、自己を燃やし尽くすことで「陶酔」や「美」を得る、といったことがあげられる。「自己を犠牲にする自分」に価値を置いてしまうと逆に危険になる。一部のカルト的な集団を思い起こさせる。

「強制的な犠牲」とは、義務的・効率的・機械的な「自己犠牲」、戦争や社会制度で「個人は全体のために消耗するべき」と命じられるケース、個の尊厳が無視され、自己は単なる部品となる、といったことか。ここでは、自由意志の喪失に結びつく危険性がある。

アンパンマンの行為は「自己犠牲」よりもむしろ 「自己の更新を含んだ愛の贈与」と言った方がいいかもしれない。そう考えると、今はやりの贈与論につながる気もする。

マルセル・モースの著作『贈与論』では、交換に還元できない「贈与」の力を訴えている。贈与は単なる経済的取引ではなく、「返礼を期待せずに与える」行為に見えるが、そこには社会的・精神的な力が働いている。贈与されたものには「与えた人の霊」が宿ると考えられ、受け取った人は何らかの形で返礼せざるをえない、という考え方だ。

贈与はモノやサービスの移動以上に、人と人の間に絆・義務・信頼をつくると主張している。モースが言う「贈与されたものには与えた人の霊が宿る」という考えと、人智学の「行為が霊的世界に刻まれる」という見方は、同じ方向を向いている。

人智学的に見ると、贈与論の本質は、「贈与とは、自我が自己を超えて他者や宇宙に開かれる霊的行為であり、それはカルマの循環の中で未来を創造し、人類全体を結ぶ力となる」と言えそうだ。

その力を持っているアンパンマンに、いつかなれるだろうか?