知的障害者施設で事件が起きて9年がたつ。当時、人智学の立場から加害者の人生を考えた覚えがあるが、再度振り返って考えてみたい。
今思っているのは、法律がどう裁いたかでもなく、精神鑑定の結果、刑事責任能力がどうのということでもない。障害者を憎んだり、その存在を否定したりする人間がなぜ生まれたのか、という問いである。
マスコミは、表面に現れた事実しか伝えないが、加害者の生い立ちの分析がなされたり、直接加害者に話を聞いたりもする。学校時代はどんな性格の子だったとか、どんなことをやらかしたのかとか。また、施設での行動のエピソードも知られている。風呂で発作を起こして溺れ死にそうになった利用者を助けたのだが、保護者からは一言も礼を言われなかったそうだ。この体験が犯行に至る思想が初めて芽生えたきっかけになったと事件後の面会時に語っている。
しかし、どれも、ただひたすら人間性の表面にとどまっていて、事件の奥にある本質にはほど遠い感じがする。
ではその奥とは何か、ということだが、加害者は「命の価値に優劣をつける」という優生思想を自分なりにゆがめて、「生産性がない命は不要」と考えるに至った、と一般的には言われる。一般的にというのは、常識に従ってと言い換えられるが、今の社会の常識がそれに近い部分を内包してはいないだろうか?言い換えると「生産性ファースト」である。加害者の考え方は確かに歪んでおり、相応のことをひきうけなければならないが、現代で最も重要だと言われている、生産性・効率性と通じるものがあるのではないか?「経済価値」や「能力主義」で人間を測る社会の、極端にして暴力的な帰結と言えないだろうか?これは、個人を死刑にすれば解決できる簡単な問題ではない。
人智学的な観点で見れば、「他者の存在を否定する」ことは、自らの存在の根拠を否定するに等しい行為とみなす。常識ではとんでもなく響くと思うが、「すべての人間は、生まれる以前から魂的存在としての意味を持つ」と認識する。つまり、いかなる存在も、「地上的な能力」で価値を決められるものではなく、このような観点を見落とすと、人間は「役に立つか否か」だけで他人や自分を判断するようになる。
この犯罪の根底には、「他者の価値を認められない自我の不安」と、「役に立たなければ生きていてはならない」という社会の病理があると思う。やまゆり園事件の加害者を「加害者であると同時に、ある構造の被害者でもありうる」と見る視点は、社会的・心理的・そして何よりも霊魂的な観点から十分に成り立つ。「社会のために正しいことをした」と誤認させたものが、加害者の外にもある、ということだ。社会の抑圧された差別感情や不安が、加害者個人という「器」を通して、暴力として噴き出したとも読める。
人智学からすれば、加害者自身も、おそらくは「他者の尊厳を理解すること」「弱きものを受け入れること」といった学びを課題として生まれてきた魂だったと考える。しかし、その課題を果たすどころか、反転させてしまった。なぜ、このような反転悲劇になってしまったのか、いまだにわからない。「社会と時代が生んだ影」とみて、終わりにしてよいものだろうか?