社会人向けの教材の編集や学習指導の仕事をやっていた(相当な)昔、学習者タイプに関する大規模な調査をしたことがあり、予想通りの結果がでました。これは、思い出話ではなく、今につながることだと思うので書きます。
その分析を一言でもし表現すれば、「人は、情報によって、結局、情報そのものになってしまうのでは?」という疑念です。このようなことを考えた一因は、参院選のことと、もう一つは最新のAIに関連します。
調査で分かった一番のことは、“大人になっても受動的にしか学習しない人がとても多い”ということです。言われた日程で、言われた内容を、言われた形で行う、等々のタイプの人が最も多かったのです。小中学校では、表向きには、「個性を伸ばす、能動的になる」等々の美しい言葉が語られますが、子供たちがやっていることは、先生の言われたことです。どんなに創造的に思われても、それは先生に言われてやっているのです。もちろん先生たちも、教育委員会や文科省に「言われて」やっているのですが。
ひとは、正しいと一度思ってしまうと、それに従ってしまう傾向をもつ、という特性があります。子供たちは、色々な経験を経た大人になってからも、学習に関しては“受動的”であり続けているようです。もちろん今までに「言われたこと」全ては、「情報」です。
ところで、選挙の演説やSNS上の情報などからも人は、“学習”します。学習するというよりも、“インプットされてしまう”、人も多いかもしれません。発信された情報が正しいのか、不正確なのか、不十分なのか、正しいことの一部の中に嘘が隠れていないか、などと意識的になることができる人が減っているように感じます。
政治学者やベテランのジャーナリストが発言する明快な分析も、鵜吞みにしてしまうこともあります。これも受け身のひとつの形です。
AIに関連したことでは、最近「AIによる回答をそのまま使うことが多くなり、確実に思考力が奪われている」人が増えているのではないか、という心配です。親しくしていただいている現役の大学教授もおっしゃっていましたが、学生たちは論文をAIに聞いて書くのは当たり前になっており、そのうえなんと、教授たちでさえ、その論文評価にAIを使っているというのです。「ここは本当に大学なのか?」とおっしゃっていました。
私が色々な分野の先達がたによく伺ったのは「私はこう思うが、」と一度自分で考えてから質問しなさい、というものでした。言い換えると、楽をしようと思うな、という助言だったと思います。何事も簡単には正解は出ません。「わからない」という、「矛盾や曖昧さに耐え、待ち続ける力」、「沈黙の中で熟す思索」が大切なような気がします。
AIは、何を聞いても驚くほどうまく賢くまとめてくれます。それに感心して、もうこれで十分すぎる、と思ってしまうこともあります。そうすると、受動的なままで、積極的な意識さえ薄れていきそうです。どんなに賢い情報があっても、「問うこと」をやめると、人間が情報自体になっていってしまうような気がしています。