人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

河童忌に思う ‘たこ’ のこと

今日は、芥川龍之介の命日の河童忌ですが、芥川とはまるで違う世界に生きた人で、同じ命日の人のことを書きたいと思います。

その人とは、髪型を河童のように刈り込んだことから「河童の清作」の愛称で呼ばれた人、「迷惑かけてありがとう」という言葉を座右の銘にした、プロボクサーでコメディアンの、たこ八郎さんのことです。

「迷惑かけてごめんなさい」という言い方が、普通の日本語だと思いますが、「迷惑かけてありがとう」という不思議な表現の中に、人間関係に関する、ものすごく深い何かを感じます。縁の結び方のありかたの一種と言っていいかと思います。

「迷惑かけて」と「ありがとう」の間に何か無限な人間関係が生きているような気がします。無限な人間関係とは、もっともっと深く人とかかわって生きていく、今まで気づかなかった新しい関係があるのではないか、という予感です。言い換えると、縁があったことの発見です。

私は、弱いものをたくさん抱え込んでいますが、「こんなことでくじけてはいけない」、「もっとしっかりしなくてはいけない」「自分の力だけで生きていかねばならない」「他人に頼ってはいけない」と自分に言い聞かせて生きてきました。でも、「迷惑かけてありがとう」という言葉を聞いて、全然違う生き方の世界があるのかもしれない、と思うようになりました。

それは、「たとえ迷惑という形であれ、人ともっと深く関わっていいんだ」という見方です。迷惑をかけると人生の“借り”がたくさんできます。他人への借りなんかもっともっと引き受けたらいいんだ。そのことが生きるということの非常に大きな意味を形づくっているかもしれない、という思いです。ひょっとしたら悪い“業”を積むのが、人生なのかもしれません。

人は所詮、迷惑をかけ合って生きています。そうは思いませんか?たこ八郎さんの人生には、確かに人に迷惑をかけてしまったことが多かったようですが、それをはたから見ると、「申し訳ない」といった罪悪感で終わらせず、「ありがとう」と感謝の気持ちに変えたように見えます。なぜ、そんなことができるのだろうか?と思った時、思い出したことが一つありました。「迷惑はかけてしまうものだ、でもそれを許し、受け入れてくれる人がいるから自分は生きられる」という、他者の存在です。

この考え方は、シュタイナーが語った「人間は不完全な存在であるゆえに、関係性の中で成長する」という人智学的な人間観にも近いものを感じさせますが、最もよく比べることができるのは、『法華経』にでてくる“常不軽菩薩”です。常不軽菩薩は、相手が誰であれいきなり、「私は、あなたたちを深く敬います。けっして軽蔑しません。」と言いまわった方です。いきなりそんなことを言われた民衆は、「なにをふざけたことを言いやがる」と腹をたて、悪口罵詈し、杖や枝、瓦石をもって彼を迫害したのですが、それでも彼はめげず、誰に対しても同じ言葉をかけて礼拝し、迫害されるということを繰り返した、という話が残っています。

常不軽菩薩は、誰に対しても、いわば「迷惑」をかけまくったと言えるかもしれません。それは、縁を作る手段だったと思えます。縁を作ることで相手を救おうとしたのかもしれません。ですが、“迷惑”と思われることを、どう受け取り、意味を考えるかは、受け取る方は様々です。ありがた迷惑として、避けたかったかもしれません。

視点を変えると例えば、赤ちゃんは、母親に色々な“迷惑”をかけてしか生きられませんが、面倒だとは思っても、お母さんはそれを迷惑と感じてはいないでしょう。きっと、「迷惑かけてくれてありがとう」と思っているはずです。赤ちゃんは、育った後、心の中では、「迷惑かけてありがとう」と思うに違いありません。

ここで書いた思いが、天にいらっしゃるたこ八郎さんに、少しでも届けばいいのですが。