お墓参りをしながら、こんなことを思った。
現代の追悼文化は、伝統的な葬送儀礼が希薄化・形骸化する中、SNS上に新しい「共同の死の場」を生み出している。たとえば、追悼ハッシュタグとかオンライン墓地とかAI供養とかデジタル人格レプリカなどだ。
それらを生き生きした人間が関与していないとして、すぐに批判することは、短慮だと思う。デジタル人格レプリカを例にとってみて、従来の人智学の考えに従うとすると、「霊的存在としての死者」と「AIによる模造人格」は全く別物で、魂の実在を忘れさせる危険がある、という結論に結びつきやすい。
だが、本当に別物なのだろうか?と問いを立てることは、霊魂の知識に通じている人智学徒にとっても大切なことだと思う。別物にしている人間の側に問題があるのでは、という視点だ。
人智学者なら、「魂がこもった真心の言葉があればデジタルを通しても死者とつながれるが、形式化すれば霊的には無意味」とか、「死者と生者を結ぶのは技術か、真心か」と言うかもしれないが、ここはよく考えなければならないと思う。
そう思うのは、生きた僧侶が供養する場合でも、魂も真心も感じられないことがあるからだ。表面的には心を込めて読経しているように見えるのだが、極端な場合本当は、ビジネスでやっている場合がある。
そんなわけで、「テクノロジーがいくら発展しても、本質的な弔いの力は人間の魂の働きによって決まる」、と当然言いたいところを、もう少し考えて、「本質的な弔いの力をテクノロジーまたは物質に載せることはできないのか」と問うことはできないだろうか?これは、恐ろしい考えだろうか?
ここでひとつの問いを立ててみた。
「デジタル空間が霊的世界への窓としての役割、例えば墓石の代わりになりえるか」、というものだ。
墓石は単なる鉱物ではなく、亡き人を思い起こす象徴としての記憶の場であり、家族や地域が共に祈る場でもあり、生者が死者に向かって思いを集中させる焦点としての霊的な通路といった意味がある。逆に死者が生者に向かって思いを向ける通路でもある。
デジタル空間もまた、これらの役割の一部を果たせないのか、ということだ。いいかえれば、ディスプレイ越しに故人を想起するとき、その集中の仕方は、墓前で祈る行為に似た働きを持ちうるかどうかだ。
デジタル空間に思い出を保存し、それを集中して心に呼び起こす行為は、ひょっとしたら死者との交流の媒介となりうるかもしれない。
一方、「鉱物としての物理的な墓石は、霊にとって不可欠である」という考え方もある。人智学の観点では、霊的な存在は物質世界を通して生きた人間に認識されるという見方があるからだ。死後の霊は「肉体を持った生者が自分を思い出してくれること」によって力を得るとされる。
思い出すことが重要な点だとすれば、その媒介がデジタルであろうと生であろうと、同じなのかもしれない。
デジタルに、生者の心を注ぐことはできると思われる。紙にインクの塊の文字で印刷されたありがたいお経も、そのままでは、ただの物質だ。そこに魂も心も込められなくなった人は、デジタルをどう眺めるのだろうか?