人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

人間の在り方、生き方

同タイトルの公開講座が東京大学で行われ、その初日に参加してきた。印象に残った講演から引用し、考えてみたい。

それは、“現代社会に対するハンナ・アーレントの警告”という題で、彼女の著作である、政治における嘘を扱った『真理と政治』の読解を中心に進められた。

前段として、政治の嘘に係わる人の態度として、「嘘の理論を心から信じるわけでもなく、理論が嘘と知りつつそれを必死に隠そうともしない」人を挙げている。言い換えると、<嘘に基づいて政策実行することの意味が分かっているがやっている>態度と、<政策実行をしているがそれが嘘に基づいていることがわかっていない>という二つの態度の差が実はなくなっている、ということだそうだ。

よくわからないところがあるが、なぜ、そんなことになるのか?という疑問が湧いてくる。官僚の意識が曇ってきているのか、政治は誰がトップになろうと…、どうやろうと、世の中は変わらない、という諦めの心境を持つ人が増えているのか?

アーレントは、現代の政治的嘘を分析するために、何とソクラテスに言及している。アーレントは、「思考」の定義をプラトンの対話編『ゴルギアス』でのソクラテスの台詞―「ぼくがぼく自身と不調和であること」という文言だけから導き出す。

自分がやっていることと矛盾する事実やデータに気付いた人間は、「お前がやっていることは、この事実やデータと矛盾しているではないか」という内なる声を聞く。その声に対し、「本当に矛盾するだろうか。見てみよう。」とか、「確かにそうだ。こんなおかしなことはやめよう。ではどうやってやめようか」などといった内なる対話が始まるならば、その時こそ、その人間はものを考えている。これが、アーレントの考えた「思考」の定義だ。

アーレントは、最終的に、ひとつの命題にたどり着く。

「自分自身と不調和であり、自分自身に矛盾しているよりも、世の中全体と不調和の方がいい」

そして、「命題の真理は実際にそれをやって見せることによってのみ人びとに行為を鼓舞できる」、「われわれが勇気や善の行為をなそうとするときはいつでも、他の誰かを模倣している」とも言っている。

アーレントは「思考すること」が道徳的責任の前提だと考えたようである。「声なき対話」は、アーレントにとって思考そのものであり、しかもそれは「知識を生み出すため」ではなく、「自分自身と対話することで、責任を持って生きられるか」を確認する道徳的営みといえる。

人智学では、人間は「高次の自己」と「下位の自己(欲望や習慣にとらわれた自我)」のあいだで、常に対話している存在だとされる。アーレントがいう「わたしと私自身」とは、この二重の自己が出会う場と対応させることができる。これは、「自分自身と折り合う」と表現できる。「折り合う」とは、衝動や利己的な動きを抑えつけるのではなく、それらを意識に取り込み、霊的自己の光のもとで調和させることを意味する。

アーレントは「思考の欠如」が悪を招くと見たが、人智学も「生きた思考」こそ人間を霊的に目覚めさせ、自由な行為を生むと考える。つまり「折り合える自己」への道は、知識や規範や既成の道徳に従うのではなく、思考を通じて自由に行為することと同じだ。「何々しなければならない」という、いかなる外からの強制も、排除される。

ただし、自分の内で「本当に納得できないこと」をしてしまえば、それは必ず他者との関わりにゆがみを生じさせ、共同体全体に影響する。孤立した個人の内省ではなく、あくまで共同体の調和のためだ。「自分と折り合った」誠実な行為は、共同体の中で信頼や共鳴を生み、未来を軽やかにする。一人の人間が「自分との折り合い」を保つことで、その人の行為は他者に安心感を与え、共同体の中で「信頼の核」となりえる。

この講義は、政治の嘘から始まり、人間の内的自覚にまで及んだ、かなりシリアスな内容を扱ったものだったが、講師の先生は、直感的にみて、朗らかでユーモアたっぷりで、打ち解けやすい方だったと思う。東大の教授にしては…。それがなんだか救いになっているような気がした。

老婆の姿をした神について

ギリシア神話などに出てくる“変身”について、講座で勉強しているのだが、今日は、女神アテナとアラクネという織物職人の物語を読んだ。アラクネは、ギリシア語で蜘蛛という意味である。

アラクネの織物の腕前は素晴らしかったのだが、それにうぬぼれてしまった。技術を授けたのは、女神アテナだった。アテナは、老婆に姿を変えてアラクネのもとにやってきて、アラクネの傲慢さを指摘したのだが、アラクネは老婆を馬鹿にし、聞く耳を持たなかった。

以降、途中は省略するが、最後にアラクネは糸を出す腹を持ち、機織りに精を出す蜘蛛になった、という物語だ。

傲慢さによって動物に変身してしまうという話は、神話に限らずたいへん多いが、その変身譚よりも、私は「老婆」に意識が向いてしまった。

精神界を認識でき、その中を旅するようになると、よく“老婆”に出会うと言われている。女神が老婆の姿で現れて、旅人や英雄の思いやり・勇気・徳を試すのだそうだ。老婆を助けると祝福され、無視や侮辱をすると呪いを受ける。

老婆は、この世とあの世の境界に現れるともいう。仏教でいう奪衣婆もそうかもしれない。

人智学では、神話に登場する「乞食や老婆の姿をした神」は、人間の道徳的力量を試す働きを持つ、と言われる。老婆を見て「外見に惑わされず、霊的実在を感じられるか」を試されるのだ。

私は、この世で老婆を見た時に、「みすぼらしく、先の短い、何の働きもしない、衰えて、弱く、醜くく」といった印象を抱いてしまう。それは私が人間の外見だけ、肉体だけしか見ていないからだ。

人智学が繰り返し強調するのは、「感覚的に見えるものと霊的実在とは一致しない」ということだ。

神話や伝説で「老婆が助けを求める場面」がよく出てくる。そこで問われているのは、「役に立たなそうに見える存在に手を差し伸べられるか?醜さや衰えを軽蔑せず、尊厳を見出せるか?」ということだ。魂が即座に「そこに霊的価値がある」と感じ取れる力があるかどうかを試されている。

神や天使が人間に試練を与えるとき、しばしばみすぼらしい姿で現れる。英雄譚では、老婆を助けた人物がのちに祝福を受けるのは、「彼が外見を超えて神的な本質を認識した」ことの報いである。その逆もあり、素晴らしく若く美しく輝く存在が、闇の霊魂だったりするので、本当に、見極めるのが困難な世界だ。

人智学の実践課題に「すべての存在に内在する神的要素を見ようと努める」練習がある。感覚的に「不要・醜い・弱い」と見える存在を前にしても、その背後に霊的な必然性・尊さを感じ取る訓練だ。

その課題の、私の点数はまだ20点くらいだと思う…。

ミカエル祭の肝試し

ミカエルと持国天

大天使ミカエルの祭りには関心がなくても、フランスのモン・サン=ミッシェル(Mont Saint-Michel)はご存じの方が多い。ミッシェルがすなわちミカエルだ。モン・サン=ミッシェルと宮島は姉妹都市となっていて、宮島町にある大聖院の境内には、ミカエルの像が立っている。

今はミカエル祭の時節なのだが、これは外の世界がだんだんと暗くなるこの時期に、内なる光を育む祭りといえる。ミカエルには竜に立ち向かう姿を通して、心の弱さや迷いを吹き払う勇気の権化のようなイメージがある。人間が精神的自由を確立するための援助者ともされる。

ミカエルは、抽象的・機械的な思考が物質主義に落ちないように、思考を「生きた思考」に導き、人間を「権威」や「古い宗教的外枠」から解放し、個々が自由に霊的真理を求められるように働くと言われている。

ミカエル衝動は、なによりも勇気の養成に関係が強い。ミカエルが描かれる絵や像には退治される竜が出てくるが、竜は人間の内に働く「恐れ」「懐疑」「硬直した思考」の象徴とみなせる。ミカエル衝動を受けるとは、思考と魂の中に勇気を呼び覚ますことだといえる。日本でいえば、天邪鬼を踏みつける持国天と同じような存在だ。

“勇気を呼び覚ます”というテーマは、日本にも西洋にもある。

「勇気試し」という話は、日本の民話や昔話の中によく出てくるが、「恐ろしい場所に一人で行かされる」「怖いものに向き合う」といった試練型の物語である。

代表的なパターンは、墓場に行く話、夜中に墓場へ行って「証拠」を持ち帰ることを命じられる話、鬼や妖怪との遭遇などがあるが、これらは子どもの通過儀礼としての勇気試しで、共同体で「子どもが大人になるための度胸試し」として行われていた。いわゆる「肝試し」と言っていい。

勇気には、おおきく三種あるように思う。
ひとつには、小さな恐れに打ち勝つ訓練、困難を成長の機会と見る勇気。
さらに、既成概念に安住しない勇気、権威や偏見に迎合せず、自分で考え抜く勇気。
そして、自分の霊的認識を隠さず語り、人と分かち合う社会的勇気である。
外への挑戦を通して「心の竜」と戦う練習をすることになる。

西洋での例として、この時期にシュタイナー学校で行われる「勇気試し」を紹介する。

これは、単なるスリルや危険に挑戦するものではなく、子どもが自分の内面と向き合い、恐怖や不安を意識的に乗り越える経験を通して「自分を信頼する力」を育むことを目的とする。子どもたちの内面の成長、特に勇気・自己統制・善悪の判断力を育むことを目的としている。闇・高所・未知・挑戦は「恐怖や不安」の象徴となる。

たとえば、学年によって変わってくるが、

高い木の上から小さくジャンプする、川を渡る。
キャンプや学校の庭で、暗闇の中を歩く。
紙で作ったモンスターを怖がらずに倒す、暗い部屋で自分を表現する劇。
クラスで自分の意見を大きな声で発表する。
他者の前でピアノや朗読を披露する。
高さや簡単な障害物に挑戦(低めのロープ渡りなど)する。
山登りや小規模なアウトドアアドベンチャー(岩場や川渡り)。
夜間にチームで目的地まで進む「ナイトハイキング」。

など、多彩だ。中には、「焼けた炭を手で取り出す」といったやや過激なこともあるようだが、聞いた話では、案外大したやけどはしないとのことだ。日本の火渡り行のようなものかもしれない。

勇気試しは、ミカエル祭の精神を日常の体験として実践するものとなる。例えば、「暗闇の中を歩く」ことは、「未知や恐怖に立ち向かう」ミカエルの勇気を象徴している。シュタイナー教育では、これらの体験が魂の成長や人格形成に直結すると考えられている。

日本でも「肝試し」や林間学校の挑戦、発表会などが「勇気試し的要素」を持つことはあるが、シュタイナー学校のように内面的成長を重視して体系化された活動はあまり無いように思う。娯楽や体験学習が主目的で、精神的象徴性は薄い。日本の行事は「偶発的に勇気を育む」のに対し、シュタイナー教育では「意図的に勇気を育てる」仕組みになっている。

『世界の土偶を読む』に衝撃!

世界の土偶を読む 竹倉史人 晶文社  (キャッサバと精霊)

竹倉史人先生の話題作、『世界の土偶を読む』を読んで、目からうろこの感動を味わったので、少し感想を書かせていただく。竹倉先生とは、一度仕事の打ち合わせをしたことがあり、たいへん革新的なお考えに感心した覚えがある。

520ページを超える大作なので、ほんの一部分の感想となる。それは、第2章の「メタ・ヒューマンの世界」で言及されている“南米「マクナ」と「マクシ」の世界認知”の項である。

マクナは、アマゾン川流域に暮らす民族集団のことで、その世界観には、自然と人間・動物・精霊との共同生活が深く埋め込まれており、「人間だけが人間らしい主体を持つ」というような区分はあいまいになっている。そのことについて先生はこう書かれている。

 「物質世界のあらゆる存在は、霊的世界にその対応物を持っている。
これは、物質世界における現象としての形態(=身体)と、その本体とも
言うべき霊的実質(=霊魂)というかたちで理解されている。」

実際に、マクナの人々は狩猟や漁労の対象となる動物や魚を自分たちと同じ「人」として認知しているそうだ。動物や魚は、この「人」が物質世界において一時的な「扮装」をしているだけだという。

マクナは自然を無制限に利用するのではなく、儀礼やタブー、精霊との関係を通して「持続可能性」を保とうとする文化的な仕組みを持つ。自然破壊が進むと、それはただの“資源の減少”ではなく、宇宙そのもののバランスが壊れることと同じとみなされる。

なんという進んだ考えなのだろう!現代の文明社会で暮らしている人々は、あと何百年たったらこの境地に追いつくのだろうか?

もうひとつ。同じアマゾン川流域のガイアナに暮らす「マクシ」と呼ばれる人々のアニミズムについてだ。

「マクシ」と呼ばれる人々が栽培しているものに、主食のキャッサバがある。キャッサバと人間は相互にコミュニケートできると考えられており、実際に栽培者は、キャッサバを自分の「子ども」と呼ぶそうだ。また、「キャッサバ母」と呼ばれて、畑を管理し、作物の成長を促進する精霊の存在も信じられている。「キャッサバ母」から何らかのメッセージがあるときは、人の夢の中にキャッサバの精霊が、人間と同じ姿で現れ、人間の言葉をしゃべるという。

人智学の観点から人類学的にいう「アニミズム」を読み替えてみると、それは、古代人の自然な霊視能力の表れと見なされる。人類が遠い過去において「自然をとおして霊を直接知覚」していた、という観方だ。アニミズムでは木や山や動物に人格があるように感じるが、それは単なる「幻想」ではなく、実際に自然界に活動している霊的存在を感知している現象といえる。

人智学が見通している流れは、古代では自然を通して霊を感じる段階(アニミズム的)、近代では自然を物質として分析する段階(科学的自然観)、未来では自我を強化したうえで意識的に霊界を認識する段階(霊的科学)というふうに見ている。

アニミズム的感性を「古いもの」として切り捨てるのではなく、未来の霊的認識に橋渡しするものと評価する。有機農業で「土が生きている」と感じたり、森林を「癒しの場」と感じる、といった経験は、同じく自然霊の働きを無意識に受け取っている兆しともいえる。マクナやマクシの人々は、ひょっとすると未来人なのかもしれない。

シルクロードの遺宝を学ぶ

シルクロードの宝

シルクロードの古代遺跡の宝を学ぶ講座に参加しているのだが、その中にソグド人が作ったとされる陶器で、“オスアリ”と言われている納骨器に目がくぎ付けになってしまった。

ソグド人は、中央アジア・サマルカンド周辺のソグディアナに住んでいたイラン系民族で、シルクロード交易に大きな役割を果たしたそうである。死後には独特の陶製の納骨器を用いた埋葬が行われたようだ。

この写真は、家屋形の納骨器のふたの部分で、手に枝を持って向き合う女性は太陽と月の冠をつけており、上部には月と太陽のモチーフが見られる。1400年くらい前のものとされている。

考古学では、死者の霊魂を外界から守り、また外へ漏れ出さないようにする呪術的・宗教的意味を持っていたという説があるようだが、死者と月と太陽と、と聞くと、どうしても人智学の考え方を思い出してしまう。

ソグド人は交易民だったので、信仰も多様で、ゾロアスター教・仏教・マニ教・キリスト教ネストリウス派、さらに中国に定住してから道教や中国的宇宙観の影響も受けているそうだ。

ゾロアスター教では、宇宙は「光と闇」「善と悪」の二元対立の場で、太陽は「アフラ・マズダ(光の神)」の秩序を表すという考えで、月も神聖視され、死後の魂が通る「光の道」を示す。つまり、骨壺に太陽と月を描くのは、死者の魂が宇宙秩序の中で正しい方向に導かれるようにという祈りを表現していると思われる。

中央アジアや中国に定住したソグド人は、死後の魂が「星々や天体をたどって霊界に上る」という観念を持っていたようだが、この観念が人智学の認識とまさに一致している。

太古の月では、光と闇・善と悪の対立が生じ、のちのカルマや苦悩の根源が形成された、とされる。また、「太陽的なもの」とは、愛・中心・統合の象徴である。人智学では、人間は「月的なもの」(習慣・業・過去に縛る力)を克服し、「太陽的なもの」(愛・自由・未来へ向かう力)に目覚めていくことが使命とされる。

また、人は死後に月の領域と太陽の領域を通っていくが、それには大切な意味があるという。月圏では欲望や未練を抱えた魂が、地上生活での行為・感情を清算する領域とされ、太陽圏以降では魂が宇宙的存在(霊的階層の存在たち)と共に、次なる生を準備する領域とされる。

この両者を経ることで、人間は「自己の過去を背負いながら、未来を創造する霊的存在」として進化していく、という認識を人智学ではする。

オスアリには、ペルシア高官の生涯が婚礼・狩猟・病気・死の4つの場面で描かれており、仏教でいう生老病死と同じだ。

来週の満月には、気持ちを込めてお月見ができそうである。

“異世界転生・転移もの”を考える

多くの人が多少なりとも「人生をやり直したい」と思っている。だから、現実の制約や生きづらさを超えてやり直したいという願望を満たしてくれる「異世界転生・転移もの」のアニメや漫画がブームなのだろうと思う。

特に、「悪役令嬢もの」は、破滅フラグという「決定済みの不幸な未来」を、知識や努力で回避できる物語なので、これは「自分の未来を作り直せる」という願いを満たせることにつながっている。読者にとって「本来なら悪役でしかない立場」が、実は自分次第で主役になれる、という逆転のカタルシスがある。

転生のモチーフを人智学的にみると、人間は地上での生を終えた後、霊界を経て再び転生し、前世での学びや課題を次の人生に持ち越すという認識をしている。異世界転生ものは、これを物語的に圧縮した形で提示しているといえる。たとえば「悪役令嬢」としての立場は「前世での未解決のカルマ的状況」に相当し、「破滅フラグ回避の努力」は「カルマを克服し、新しい自由を獲得する試み」と読める。

「悪役」として生まれることも魂の成長の一環であり、それを自覚し克服することで次の段階に進める、という理屈になる。

悪役令嬢は、「高い地位と美貌を持つが、破滅する」というシナリオを背負って生まれてきた存在だが、これは魂に課された「一種の試練的カルマ」と見なせる。

破滅フラグという「決定済みの未来」は、まさにカルマ的な「予兆」に相当する。主人公がそのフラグを知り、意識的に回避しようとする姿は、「カルマを盲目的に受け入れるのではなく、自由な意志で新しい未来を創造する」人間の本質を描いている。カルマは絶対的な宿命ではなく、人間が意識と自由を発揮する場でもある、と言える。

なぜ今このジャンルが流行るのか?を再考してみると、「逃げたい」「でも現実では無理」、「ならばフィクションの世界で」というこころの動きは、実は表面的で、本当は現代人の魂が「死後世界や転生」を直感的に求めているからではないかと思われる。

多くの人は「本当に異世界に転生できる」と信じてはいない。ただし、「もしできたら…」という可能性への願望は、強く共有されている。その願望自体が、かつて宗教が担っていた「死後の希望」「新たな人生」という機能を、現代の物語が肩代わりしているとも言える。

ただし、逃避した先の異世界で楽な生活が待っている、とは限らない。試練はずっと続く。すぐに「やり直し」に向かうのではなく、まずは、今この世界で担っている試練を“刈り取って”から、次に進むのがよいと思う。

確率という愚かしい幻想について

南海トラフ地震の発生確率は、「20~50%」と「60~90%」の両方を併記した長期評価になったそうだ。今後は、発生確率別に、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲのランク表記をするそうだが、これではますます、何のことだか全くわからない。

それぞれ、単純平均モデル、新モデルとしているが、%とランクとモデルとの合わせ技で目くらましにあったようで、その愚かしさには感心するほどだ。データの信頼性が大きく揺らぎ、見直しにつながったといっているが、「高い確率」に固執している姿勢は変わらない。

ある地震学者は、日本の地震学の不幸をこう言っている。「60年前の予知計画以降、政策側の要請に“できる”ふりを続け、予算を獲得してきた。」と。
また、「そのツケで、できないと言えなくなった。」とも。

地震学とは、何とも哀れな学問なのだなと思う。地震学者がかわいそうに見えてくる。

地震は、いつ起こるかわからない、というのが正解だ。それでは、国も民衆も納得できないので、確率という幻のようなものによって、ごまかそうとする。

人智学では「確率」や「偶然」といった概念を、現代科学が提唱するのとは異なる仕方で扱っている。

人智学は、「偶然は存在しない」と語る。ただし、必然は人間の通常の意識からは隠されているために、私たちには「ランダム」や「確率的」と見える。

統計学や確率論は、現象の“多数性”から規則性を抽出する。このような数量的な手法を否定はしないが、「人間の知覚能力の限界による代用品」とみている。つまり、個別の出来事を必然として把握する力を欠いているために、我々は「確率」という形で理解している、という立場だ。「確率」は、人間の認識が十分に届かないことの表現にすぎない。

人間は個別の現象を貫く力をまだ見抜くことができず、そのために、平均や統計に頼る、と言える。確率や統計は「不完全な認識の道具」のようなものだ。

自然科学は、「確率は自然が本質的にランダムである証拠」という。人智学は、「確率は人間意識が必然性をまだ見通せないために現れる仮の姿」という。両者の接点は、「人間意識と観測行為」が自然現象に深く関わっている、という点にある。

南海トラフ地震は、今日にでも起こるかもしれないし、500年後かもしれない。直感能力が育つまで、ナマズに聞いてみないとわからない…

人間の“しぐさ”は何のあらわれ?

『ミニシミテ』 田中 泯 講談社

田中 泯さんの『ミニシミテ』を読んでいて、印象に残った文章は、“動作に現れる心を読む”の中にあった。

部屋の窓を誰かが開ける、という状況を想定した時、その動作を表現する言葉として、「忙しげに、荒っぽく、突然に、ゆっくりと、やさしく、面倒くさそうに、ていねいに、教えるように」などの言葉をあげながら、「単純な動作でもその動作の主人公のカラダの内部の状態が表情として見えてくる。」と書いている。また、「カラダには表れてしまうものが無数にある」とも言っている。

内部が外にあらわれる、ということを考えていて、思い出したのが人の“しぐさ”の意味である。

思考や感情は身体に響き、表情・姿勢・手の動きなどの「しぐさ」にあらわれる。しぐさは、心の中を「翻訳」する言語のようなもので、意識的に隠そうとしても、その人の魂の質が必ずにじみ出る、ような性質を持つように思える。日常でふと出てしまう「無意識のしぐさ」にも意味があるのを感じる。

人智学では、魂は死と再生の間で精神界に滞在し、次の人生にふさわしい身体を形づくる「設計」をすると、認識している。前の人生での思考や感情や行為の傾向が、肉体や気質の形に反映され、その結果、ある人は手を動かすときに柔らかさがにじみ出たり、別の人は硬さやぎこちなさが出たりする。

たとえば、足を組む癖、物を扱う手つき、怒りやすい人の肩の動きなどは、魂の深層が身体に沁み込み、外へ現れているものとみられる。

顔のしぐさも同様だ。何度も人を批判したり、皮肉を言い続けてきた人は、無意識に口元に冷笑的なしぐさをもつようになる。逆に、感謝や祈りを日常的に抱いてきた人は、自然に穏やかな表情をするようになる。

「怒りっぽい人」と「祈り深い人」を取り上げて、もう少し比較してみると、

怒りっぽい人のしぐさとしては、「肩や腕に常に緊張がある、手の動きが鋭く、投げ出すような所作をしやすい。足音が強く、踏みつけるように歩く。眉間にしわが寄りやすく、目つきが鋭くなる。口元が突き出たり、噛みしめるような癖がある。」

といったことが考えられる。「力で物事を押し通そうとする傾向」が強かった結果、今の身体に「爆発しやすい動き」が染み込んでいる。これは、今生で「抑制」「忍耐」「他者への思いやり」を学ぶ課題として現れている。

祈り深い人のしぐさとしては、「手の動きが静かで、物を扱うときに大切に包むような所作をする。背筋が自然にまっすぐで、頭が軽く上に向かう。歩き方が静かで、地面を押さえつけるのではなく「踏ませてもらっている」という感じ。目が柔らかく開かれ、光を映すように澄んでいる。口角がわずかに上がり、穏やかな笑みをたたえやすい。」

ことがあげられる。自然に人や世界に対して信頼を寄せる傾向が出やすい。

このほかに、爪をかむ・腕を組む・よく上を見上げる・貧乏ゆすり等々、日常の「何気ないしぐさ」が考えられるが、どんな傾向の魂で、どんな課題があるのか、だいたい想像がつきそうだ。

しぐさは「過去からの傾向」と「今生の課題」が交わる地点に現れる、と理解できそうだ。こういう視点でいくと、自分や周囲の人の「癖やしぐさ」をカルマ的に観察することが、ちょっとした魂の観察練習にもなりえる。

鏡をみたら、だいぶ眉間にしわが寄っている。私の課題は何なのだろうか?

任侠道 ― 市民の侠客、霊的用心棒

小走番外地 銭湯のポスター

銭湯の前を通りかかったら、「網走番外地」のポスターらしきものを見かけ、こんなところになぜ!と思ってよく見たら、「小走番外地」とあり、任侠らしき人が、「走るのはお控えなすって」と言っていた…。なかなかよくできた銭湯用のポスターに感心した。

ところで任侠道は、日本の博徒や的屋などの世界で育まれた独特の倫理観や行動規範で、「弱きを助け、強きを挫く」という美学でよく表される。

まったく素朴に、この「弱きを助け、強きを挫く」に強く惹かれるところがある。それはなぜなのだろうか?

仲間や庶民に対する「人情」を大切にしたり、社会の中で虐げられた人、困っている人を助けたりするが、実際には博打や縄張り争いもあり、理想と現実の落差はあるようだ。「抗争」や「暴力沙汰」が日常の世界でもある。

それでも惹きつけられるのは、権力者や悪辣な者に対して立ち向かう姿勢や、「喧嘩上等」という好戦性ではなく、筋を通すための心が感じられるからだ。仲間や義理のためには自分の命や身を投げ出すことも辞さない。こんな人が現代社会にいるだろうか?

戦後復興期では庶民は政治家や権力への不信感を抱いており、映画の侠客は、庶民が代弁してほしい「不正義への抵抗者」として支持されたが、現代でもまったく事情は変わらないように思える。

突然、人智学との比較になるが、人智学では、未来の社会を「自由・平等・友愛」の三面でとらえている。任侠道の「義理(社会的義務)」と「人情(心からの共感)」の組み合わせは、兄弟愛つまり互いに支え合う関係の初歩的な現れと見ることもできる。「庶民のために立ち上がる侠客像」は、人智学が言う自由な道徳的行為、いいかえると個人の内的な直観から発する善に近い。

仲間や庶民のために自分を投げ出す「侠気」は、人智学が繰り返し説いたキリスト衝動の世俗的・未熟な形として感じられる。キリスト衝動とは、自己を超えて他者に奉仕することだ。深読みしすぎだろうか?

もし任侠道がキリスト的に昇華されたら、血縁・組の論理を超えた 普遍的な兄弟愛、暴力ではなく言葉と共感の力、搾取ではなく奉仕と支援として、現代社会の中で「市民の侠客」「霊的な用心棒」として生きる可能性があるように思える。

事実の真偽を判断する二つの道

ファクトチェックの定義や信頼性が揺れている、とよく聞く。どんなふうに揺れているのかを探ってみた。

探る前にひとつの問いを立ててみた。

「完全に中立・無謬な情報源は存在しないのか、存在するのか?」という問いだ。これに答えるため、という方向で、揺れのことを考えてみたい。

「ファクトチェック」という言葉は一見、単純に「事実確認」と思われがちだが、実際には多くの視点があるように思う。

まず、科学的事実、歴史的事実、社会的事実(世論や統計)など、「事実」という言葉自体が多義的である。「何を事実と呼ぶか」の基準が、分野ごとに異なっているということだ。

ジャーナリズムの世界では、ファクトチェックは「公開された情報を複数の一次資料と照合し、正誤を判定する」ことを指すのが一般的とされている。一次資料とは、公式文書・統計・専門家証言のことだ。「ファクトチェック」と称しながら、実際には「言説の一部を切り取り、自分たちの価値観に照らして『誤り』とラベルを貼る」場合もある。すでに、「検証」なのか「評価」なのかが不明瞭となっている。公式文書・統計・専門家証言それ自体が、十分信頼できるのか、という点も残る。

また、「正しい/間違い」という二分法をとると、「社会的に望ましい/望ましくない」という価値判断が入りこみ、ファクトチェックは客観的検証ではなく「正統性の主張」の道具になってしまう可能性がある。

人智学の観点では、ジャーナリズムとはかなり違う見解を持つ。

それは、単なる論理的な正誤判定や経験主義的な「目に見える事実」にとどまらない。人が目にするものは「現象」であり、それをどう解釈し、背後にあるどんな霊的な力と結びつけるかによって、初めて「真の事実」となる、という見方をする。

例えば植物の葉の形は観察できる「現象」だが、それをただ並べるのではなく、葉が「全体の植物存在の変形」であると洞察するときはじめて、現象を超えて「事実」が把握できる、とする。

肝心な点は、真偽を判断する能力は外部から与えられるのではなく、自らの「純粋思考」を通して培われる、ということだ。思考が欲望や感情に曇らされていれば、どんな事実も歪めてしまう。逆に、欲望から自由な思考に至れば、事実そのものが思考の中で自己を明らかにし、真偽を判定できる。
現場に行って自ら確認し、自分の頭で考えているようでも、好奇心が残っていれば、バイアスのかかった思考が生まれてしまう。

真偽の判断には「内的訓練」で得られるバランス感覚(冷静さ・勇気・思考の集中)が必須で、それがないと幻影や妄想を事実と思い込む危険がある、としている。つまり、ファクトチェックは必要であると同時に、「チェックする側の思考の質」が問われていると思われる。

ジャーナリズム的チェックは「公共圏における秩序維持」に必要であり、人智学的判断は「人間の内面における真理発見」に必要と言えそうだ。

ビジネス仏教者が心得ておきたいこと

旧統一教会の総裁が逮捕されたニュースを見て、思ったことを記す。

逮捕理由はさておき、カルト集団とも呼ばれる旧統一教会が行ってきた行為の一部分は、霊感商法などと言われている。それは人の心の闇や弱点につけ込む行為ともいえるが、日本の伝統仏教集団は、どうなのだろうか?

人の中の奥底にある闇があっての伝統仏教と言える面はないだろうか?特に大伽藍をもつ巨大仏教宗派にその傾向が顕著にみられるような気がする。○○山という名を持つ伝統仏教は、一部だが「霊的サービス業」と化しているような印象が強い。それは、「現世利益」の扱い方に強く関係している。

「現世利益」の思想が、魂の進化にどう関わるかを考えると、相反する二重の意味をもつ。魂の進化を妨げる側面と魂の進化に資する側面だ。

妨げる側面は、

現世利益は、健康・富・安全・出世など、今の幸福を最優先したいという心をくすぐるので、しばしば「永続しないもの」に心を縛りつけ、魂の成長を一時的に停滞させる。
また、自己本位な願望追求になると、利己心が強まってしまう。また、現世利益だけに囚われると、魂が本来もつ宇宙的な課題(他者との結びつき、カルマの清算、自己超越など)を見失いかねない。

進化に資する側面としては、

現世利益の祈りは、魂が「霊的存在に心を向ける」最初の橋渡しになる役割を持つので、全く祈りというものに無縁な人には入りやすいステップといえる。また、願いが叶う・叶わない、というその両方を通じて「幸福や不幸は一時的である」という洞察が育つ可能性がある。これが魂の成熟を促す。
さらに、「自分だけ」から「他者のために」「共同体のために」という“利他的現世利益”の願いへ移ると、それ自体が魂の自己超越の練習になる。

大乗仏教の考え方は、苦悩の只中にある人に、いきなり「空」「菩薩行」「涅槃」などの深遠な真理を説いても届かないので、まずは「あなたの苦しみを和らげましょう」という現世的な利益を示すことで、仏法に親しむ心を起こさせるというステップを踏むところに特徴がある。

ただ、そこに落とし穴がある。利益を求める信者の「欲望」を利用する構造になりやすく、祈祷や護摩が「料金表」に換算され、信仰の真価よりも「価格」と「効果」で語られたりする。「金を払えば救われる」という誤解を広げ、仏教がむしろ欲望を助長する危険もある。「財のために法を売る」のか、「法を護るために財をいただく」のかで大きな差が生まれる。

たしかに現世利益は、即効性の魅力が大きく感じられる。苦しみを軽減してくれる「ご利益」は、抽象的な悟りや魂の進化よりも分かりやすく、体感しやすいからだ。

だからこそ、仏教者は「現世利益は入り口で、その奥にもっと大切なものがある」と伝える役割を果たす義務がある。その義務を仏教者は、外に向けて積極的に発信しているだろうか?

仏教者が語るべきことの例をあげてみよう。

現世利益は「仏法に親しむ入口」であり、完全な目的ではないと伝える。
薬を飲むのは体調を整えるためだが、その奥にある「健康的な生き方」まで意識しないと根本的には治らない、というようなたとえ話をする。

「金運」「健康」「試験合格」といった自己中心的願いから、その先の「家族の安寧」「社会の調和」「他者の幸福」というものを考える機会を示す。

得た利益は必ず移ろいゆくことを説く。利益を追い求める心が強いときこそ、その執着が新たな苦を生む。人々の願いにまず共感し、その切実さを受けとめたうえで、次の地平を開示する。

これらの言葉を仏教者から聞いた覚えがない。仏教学者からなら聞いたことがある。本当の大乗仏教者なら、もっともっと語るべきことがあるように想う。
100万円の壺と10万円の大護摩祈祷料と、違いはあるだろうか?

デジタル供養に魂は込められるか?

お墓参りをしながら、こんなことを思った。

現代の追悼文化は、伝統的な葬送儀礼が希薄化・形骸化する中、SNS上に新しい「共同の死の場」を生み出している。たとえば、追悼ハッシュタグとかオンライン墓地とかAI供養とかデジタル人格レプリカなどだ。

それらを生き生きした人間が関与していないとして、すぐに批判することは、短慮だと思う。デジタル人格レプリカを例にとってみて、従来の人智学の考えに従うとすると、「霊的存在としての死者」と「AIによる模造人格」は全く別物で、魂の実在を忘れさせる危険がある、という結論に結びつきやすい。

だが、本当に別物なのだろうか?と問いを立てることは、霊魂の知識に通じている人智学徒にとっても大切なことだと思う。別物にしている人間の側に問題があるのでは、という視点だ。

人智学者なら、「魂がこもった真心の言葉があればデジタルを通しても死者とつながれるが、形式化すれば霊的には無意味」とか、「死者と生者を結ぶのは技術か、真心か」と言うかもしれないが、ここはよく考えなければならないと思う。

そう思うのは、生きた僧侶が供養する場合でも、魂も真心も感じられないことがあるからだ。表面的には心を込めて読経しているように見えるのだが、極端な場合本当は、ビジネスでやっている場合がある。

そんなわけで、「テクノロジーがいくら発展しても、本質的な弔いの力は人間の魂の働きによって決まる」、と当然言いたいところを、もう少し考えて、「本質的な弔いの力をテクノロジーまたは物質に載せることはできないのか」と問うことはできないだろうか?これは、恐ろしい考えだろうか?

ここでひとつの問いを立ててみた。

「デジタル空間が霊的世界への窓としての役割、例えば墓石の代わりになりえるか」、というものだ。

墓石は単なる鉱物ではなく、亡き人を思い起こす象徴としての記憶の場であり、家族や地域が共に祈る場でもあり、生者が死者に向かって思いを集中させる焦点としての霊的な通路といった意味がある。逆に死者が生者に向かって思いを向ける通路でもある。

デジタル空間もまた、これらの役割の一部を果たせないのか、ということだ。いいかえれば、ディスプレイ越しに故人を想起するとき、その集中の仕方は、墓前で祈る行為に似た働きを持ちうるかどうかだ。

デジタル空間に思い出を保存し、それを集中して心に呼び起こす行為は、ひょっとしたら死者との交流の媒介となりうるかもしれない。

一方、「鉱物としての物理的な墓石は、霊にとって不可欠である」という考え方もある。人智学の観点では、霊的な存在は物質世界を通して生きた人間に認識されるという見方があるからだ。死後の霊は「肉体を持った生者が自分を思い出してくれること」によって力を得るとされる。

思い出すことが重要な点だとすれば、その媒介がデジタルであろうと生であろうと、同じなのかもしれない。

デジタルに、生者の心を注ぐことはできると思われる。紙にインクの塊の文字で印刷されたありがたいお経も、そのままでは、ただの物質だ。そこに魂も心も込められなくなった人は、デジタルをどう眺めるのだろうか?