南海トラフ地震の発生確率は、「20~50%」と「60~90%」の両方を併記した長期評価になったそうだ。今後は、発生確率別に、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲのランク表記をするそうだが、これではますます、何のことだか全くわからない。
それぞれ、単純平均モデル、新モデルとしているが、%とランクとモデルとの合わせ技で目くらましにあったようで、その愚かしさには感心するほどだ。データの信頼性が大きく揺らぎ、見直しにつながったといっているが、「高い確率」に固執している姿勢は変わらない。
ある地震学者は、日本の地震学の不幸をこう言っている。「60年前の予知計画以降、政策側の要請に“できる”ふりを続け、予算を獲得してきた。」と。
また、「そのツケで、できないと言えなくなった。」とも。
地震学とは、何とも哀れな学問なのだなと思う。地震学者がかわいそうに見えてくる。
地震は、いつ起こるかわからない、というのが正解だ。それでは、国も民衆も納得できないので、確率という幻のようなものによって、ごまかそうとする。
人智学では「確率」や「偶然」といった概念を、現代科学が提唱するのとは異なる仕方で扱っている。
人智学は、「偶然は存在しない」と語る。ただし、必然は人間の通常の意識からは隠されているために、私たちには「ランダム」や「確率的」と見える。
統計学や確率論は、現象の“多数性”から規則性を抽出する。このような数量的な手法を否定はしないが、「人間の知覚能力の限界による代用品」とみている。つまり、個別の出来事を必然として把握する力を欠いているために、我々は「確率」という形で理解している、という立場だ。「確率」は、人間の認識が十分に届かないことの表現にすぎない。
人間は個別の現象を貫く力をまだ見抜くことができず、そのために、平均や統計に頼る、と言える。確率や統計は「不完全な認識の道具」のようなものだ。
自然科学は、「確率は自然が本質的にランダムである証拠」という。人智学は、「確率は人間意識が必然性をまだ見通せないために現れる仮の姿」という。両者の接点は、「人間意識と観測行為」が自然現象に深く関わっている、という点にある。
南海トラフ地震は、今日にでも起こるかもしれないし、500年後かもしれない。直感能力が育つまで、ナマズに聞いてみないとわからない…