旧統一教会の総裁が逮捕されたニュースを見て、思ったことを記す。
逮捕理由はさておき、カルト集団とも呼ばれる旧統一教会が行ってきた行為の一部分は、霊感商法などと言われている。それは人の心の闇や弱点につけ込む行為ともいえるが、日本の伝統仏教集団は、どうなのだろうか?
人の中の奥底にある闇があっての伝統仏教と言える面はないだろうか?特に大伽藍をもつ巨大仏教宗派にその傾向が顕著にみられるような気がする。○○山という名を持つ伝統仏教は、一部だが「霊的サービス業」と化しているような印象が強い。それは、「現世利益」の扱い方に強く関係している。
「現世利益」の思想が、魂の進化にどう関わるかを考えると、相反する二重の意味をもつ。魂の進化を妨げる側面と魂の進化に資する側面だ。
妨げる側面は、
現世利益は、健康・富・安全・出世など、今の幸福を最優先したいという心をくすぐるので、しばしば「永続しないもの」に心を縛りつけ、魂の成長を一時的に停滞させる。
また、自己本位な願望追求になると、利己心が強まってしまう。また、現世利益だけに囚われると、魂が本来もつ宇宙的な課題(他者との結びつき、カルマの清算、自己超越など)を見失いかねない。
進化に資する側面としては、
現世利益の祈りは、魂が「霊的存在に心を向ける」最初の橋渡しになる役割を持つので、全く祈りというものに無縁な人には入りやすいステップといえる。また、願いが叶う・叶わない、というその両方を通じて「幸福や不幸は一時的である」という洞察が育つ可能性がある。これが魂の成熟を促す。
さらに、「自分だけ」から「他者のために」「共同体のために」という“利他的現世利益”の願いへ移ると、それ自体が魂の自己超越の練習になる。
大乗仏教の考え方は、苦悩の只中にある人に、いきなり「空」「菩薩行」「涅槃」などの深遠な真理を説いても届かないので、まずは「あなたの苦しみを和らげましょう」という現世的な利益を示すことで、仏法に親しむ心を起こさせるというステップを踏むところに特徴がある。
ただ、そこに落とし穴がある。利益を求める信者の「欲望」を利用する構造になりやすく、祈祷や護摩が「料金表」に換算され、信仰の真価よりも「価格」と「効果」で語られたりする。「金を払えば救われる」という誤解を広げ、仏教がむしろ欲望を助長する危険もある。「財のために法を売る」のか、「法を護るために財をいただく」のかで大きな差が生まれる。
たしかに現世利益は、即効性の魅力が大きく感じられる。苦しみを軽減してくれる「ご利益」は、抽象的な悟りや魂の進化よりも分かりやすく、体感しやすいからだ。
だからこそ、仏教者は「現世利益は入り口で、その奥にもっと大切なものがある」と伝える役割を果たす義務がある。その義務を仏教者は、外に向けて積極的に発信しているだろうか?
仏教者が語るべきことの例をあげてみよう。
現世利益は「仏法に親しむ入口」であり、完全な目的ではないと伝える。
薬を飲むのは体調を整えるためだが、その奥にある「健康的な生き方」まで意識しないと根本的には治らない、というようなたとえ話をする。
「金運」「健康」「試験合格」といった自己中心的願いから、その先の「家族の安寧」「社会の調和」「他者の幸福」というものを考える機会を示す。
得た利益は必ず移ろいゆくことを説く。利益を追い求める心が強いときこそ、その執着が新たな苦を生む。人々の願いにまず共感し、その切実さを受けとめたうえで、次の地平を開示する。
これらの言葉を仏教者から聞いた覚えがない。仏教学者からなら聞いたことがある。本当の大乗仏教者なら、もっともっと語るべきことがあるように想う。
100万円の壺と10万円の大護摩祈祷料と、違いはあるだろうか?