
銭湯の前を通りかかったら、「網走番外地」のポスターらしきものを見かけ、こんなところになぜ!と思ってよく見たら、「小走番外地」とあり、任侠らしき人が、「走るのはお控えなすって」と言っていた…。なかなかよくできた銭湯用のポスターに感心した。
ところで任侠道は、日本の博徒や的屋などの世界で育まれた独特の倫理観や行動規範で、「弱きを助け、強きを挫く」という美学でよく表される。
まったく素朴に、この「弱きを助け、強きを挫く」に強く惹かれるところがある。それはなぜなのだろうか?
仲間や庶民に対する「人情」を大切にしたり、社会の中で虐げられた人、困っている人を助けたりするが、実際には博打や縄張り争いもあり、理想と現実の落差はあるようだ。「抗争」や「暴力沙汰」が日常の世界でもある。
それでも惹きつけられるのは、権力者や悪辣な者に対して立ち向かう姿勢や、「喧嘩上等」という好戦性ではなく、筋を通すための心が感じられるからだ。仲間や義理のためには自分の命や身を投げ出すことも辞さない。こんな人が現代社会にいるだろうか?
戦後復興期では庶民は政治家や権力への不信感を抱いており、映画の侠客は、庶民が代弁してほしい「不正義への抵抗者」として支持されたが、現代でもまったく事情は変わらないように思える。
突然、人智学との比較になるが、人智学では、未来の社会を「自由・平等・友愛」の三面でとらえている。任侠道の「義理(社会的義務)」と「人情(心からの共感)」の組み合わせは、兄弟愛つまり互いに支え合う関係の初歩的な現れと見ることもできる。「庶民のために立ち上がる侠客像」は、人智学が言う自由な道徳的行為、いいかえると個人の内的な直観から発する善に近い。
仲間や庶民のために自分を投げ出す「侠気」は、人智学が繰り返し説いたキリスト衝動の世俗的・未熟な形として感じられる。キリスト衝動とは、自己を超えて他者に奉仕することだ。深読みしすぎだろうか?
もし任侠道がキリスト的に昇華されたら、血縁・組の論理を超えた 普遍的な兄弟愛、暴力ではなく言葉と共感の力、搾取ではなく奉仕と支援として、現代社会の中で「市民の侠客」「霊的な用心棒」として生きる可能性があるように思える。