
ウォーリーという映画を観た感想を書きます。
この映画の舞台は西暦2805年。人間は、汚染し尽くされた地球を捨て、全ての企業を統合した巨大企業の主導により、宇宙船アクシオムで生活していた。ゴミの山と化した地球で、ゴミ処理ロボットのウォーリーに感情ができ、宇宙からきたイブというロボットに恋してしまう、という設定で、汚染し尽くされた地球を最後には救うという冒険物語だ。子供向けだが、たいへん考えさせられる映画のように思った。
それは、AIロボットのことではない。人間のありさまのほうだ。
彼らは、すべての世話をロボットに任せ、動くホバーチェアに乗って生活しており、そのために骨格や筋肉が退化して、自力で立つことができない。ホバーチェアのホログラム画面ばかりを見ているため、すぐ隣にいる人とさえ直接会話をしない。歩かず、触れ合わず、重力も感じずに画面越しにしか世界を経験しない存在になっている。
興味深いのは、彼らが無条件の「善人」として描かれていることだ。「管理されているが、とても優しい人類」のように見える。
巨大企業は、人間から労働と判断、危険と不便さを取り除いた。孤独と苦悩もだ。衣食住が完璧に用意され、あらゆる「楽しい」レジャーが提供されている。その結果、人間は「世界に働きかける力」を失っていく。彼らは苦しんでいないが、目覚めてもいない。
この姿を見ていると、「AI時代の人間は、何もしなくていい存在になっていくのか、それとも、世界と再び触れ合う存在になれるのか」、と問われているように思えてくる。
シュタイナーは近代文明について、機械化や自動化が進むと、人間が「自分で考えなくなる」と見ていた。なぜなら彼にとって「精神」とは、うけ身ではなく、注意したり、観察したり、意識的に選んだりという「能動性」によって育つものだからだ。快適さが極まると、人はすぐ刺激を求め退屈に耐えられず、深く考えずに苦悩を避けるようになる。
今、「人間が」「人は」という語を主語にしてしまったが、これは全く、「私は」と置き換えられる。特にAIに対してはそう言える。かなり便利に使っているからだ。ときおり、AIに「精神を委ねて」しまいそうにもなる。自分で感じ、考え、選び続けるということをよほど意識してやらないと、危ない気がする。
そのうえ、私の外観は最近、とくに頭と腹のあたり、このアニメのキャラに近づいている。パソコンばかり使い、リクライニングでよく休むところなど、ちょっとぞっとするくらいだ。
この映画は、自分を意識させてくれた「鏡」のようなものだった。明日から、ダイエットをしなければならない。