人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけます

“精神的な”障子張り

今日は家の障子を張り替えた。

昔の人は、障子というものをどのようにとらえていたのだろうか?
隣の部屋にいる人の雰囲気やけしきばかりでなく、外からやってくる光が変化し、それがもたらす何かを重んじていたに違いない。
谷崎潤一郎は、むしろ障子によって光が弱められ、その結果生まれる『陰翳』を好んだ。光と闇、そして二つを仲だてる「陰影」、これは一種の三位一体のようなものか?とも思ってしまった。

ところで、障子の張り替えには、手を巧みに動かす必要があるのだが、頭脳労働をしているときと比べて、はるかに爽やかで健全で精神的ですらある、と感じた。スポーツをしているときの爽快さと同じかもしれない。昔、母に、「調子の悪いときは、何でもいいから手を動かせ」とよく言われたものだ。確かに、何かで落ち込んでいるときには、頭で考えだすと、どうも悪化するような気がするし、そういう体験を何度もしてきた。

人智学では、手は、頭以上に精神的な存在である、と言われる。誰かに向かって何かを
語るときの手の身振りの中には、知性以上のものがある。